「国立戒壇は本宗の教義ではない」のウソ(1)

現在、宗門では日蓮大聖人の御遺命たる「国立戒壇」を、堂々と「日蓮正宗の教義ではない」と完全に否定していますが、今回は「国立戒壇放棄」について検証してみたいと思います。

(歴代先師上人が異口同音に国立戒壇を叫び続けてこられた文証は以前に投稿したもの、もしくは基礎教学書・顕正会公式サイトをご覧ください。)

昭和40年代、創価学会第3代会長・池田大作は、共産党から「国立戒壇の違憲性」を責められていました。

同時に、偽戒壇・正本堂を御遺命の戒壇と意義づけようとしていました。

このような池田大作にしてみれば、御遺命の「国立戒壇」は邪魔な存在であったのです。

この池田大作の要請をうけ、本来、御遺命を守り奉るべき宗門高僧らは「国立戒壇」を弊履のごとく捨て去ったのです。

いくら宗門が「いらぬ誤解を招いて布教の妨げとならぬよう、今後は、国立戒壇という名称を使用しないことにする」と詭弁を弄しようと、歴史的事実をたどれば、ただ単に池田大作の金力と権力に屈して「国立戒壇」を捨てたてしまったのは、火を見るより明らかです。

では、その経緯を具に見てみましょう。

昭和45(1970)年3月3日
共産党・谷口善太郎議員、国立戒壇等について質問

昭和45(1970)年3月25日
浅井先生、「正本堂に就き宗務御当局に糾し訴う」を送付

昭和45(1970)年4月3日
細井日達、初代講頭先生と・浅井先生を本山に招く
「正本堂は最終の戒壇ではありません。広布の時は国立戒壇で、天母山に立てられるのです。だから私は『須弥壇は蔵の形にする』と説法したのです。よく私の本意をあそこまで会通してくれました」「(聖人展のことを)諫めてくれたのは妙信講だけだ」「妙信講の信心に私は負けました。私を本当に守ってくれるのは妙信講だけです」

昭和45(1970)年4月8日
共産党・谷口善太郎議員、国立戒壇の違憲性について質問主意書を政府に提出
(国立戒壇は、憲法第20条3項および第89条の規定に違反し、また宗教団体がその実現を目的として政治活動を行うとすれば、その活動も憲法違反とみなすべきではないかとの趣旨)

昭和45(1970)年4月9日
政府、「国立戒壇の意義」について学会に照会

昭和45(1970)年4月14日
池田大作、早瀬総監と阿部教学部長を学会本部へ呼び出す。
「(池田)国立と云うと追いつめられる恐れがある。先手をとりたい。日淳上人にも現猊下にも国立の言あり。共産党はこれらをつみ重ねて(証拠蒐集の意)きている。これは違憲になる。(中略)この際はっきりしておいた方がよいと思うがどうか。(中略)もし之をお認め頂けるならば、猊下より宗門の定義として大日蓮に発表して頂きたい。そうでないと私の独創になってしまう。
(早瀬)非常に重大な事である。充分猊下にお伝えし、申上げる。その上で御返事をする。
(池田)非常にいそぐので早く願いたい。(中略)また何等かの方法で、この件につき宗門内の統一を願いたい。今迄、猊下は、我々の言ったことを擁護して下さった。それが今度は、もう一歩脱皮せねばならぬ時になった。猊下も『時によるべし』とおっしゃっている。今ここで、永久に国立という内容にするか、しないかが、急所である。永久にしないという決定をいえば収まる。(中略)猊下よりそう云うお説法があったとして、大日蓮に発表して頂きたい。
(池田)浅井によく云って下さい(中略)私と一緒に共産党と戦ってもらいたい。もしそうしてくれるのなら、私と逢ってもよい。一ぺん逢はうか。如何?
(早瀬)結構だと思う。
(池田)それで、もしも(仲々難物なときは)谷口質問を見せて、宗門が解散になってもよいのかと云うことを、よく猊下より話して戴くことがよい。なお猊下が浅井にお逢いになるときは、早セ総監、アベ教学部長も御陪席申上げてもらいたい。
(池田)本山も危いのだということを、よく云って下さい。その時、もしよければ、会長を呼んでもよいと云って下さい。至急やってもらいたい。明日か、明後日―16日一杯にやって頂きたい。猊下より浅井に「国立をとれよ(除け)」と一言云って頂けばよいと思う。
(小平)国立を主張して憲法違反と云うことになると、宗教法人法第二条違反となり、これは、法人法第○条により、解散させられます。
(池田)だから浅井に、憲法違反で潰されてよいかということを云って下さい。猊下より、民衆立は自分が(始めに)云ったんだと、むしろ云って頂きたい

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↑池田と宗務役僧の会話記録「阿部メモ」

昭和45(1970)年4月16日
細井日達、浅井先生・顧問先生を常泉寺に呼び、谷口議員の質問主意書を見せながら
「(細井)これ(質問主意書)を見ればわかるように、国立戒壇を叫べば宗門はつぶされるかも知れない。だから浅井さん、今後はもう国立戒壇と言わんで下さい。頼みますよ。
(浅井先生)どうして国立戒壇を言うと宗門がつぶされるのでしょうか。思想・信教の自由はいまの憲法こそ保障しているのではないでしょうか。
(細井)共産党の動きがこわいのです。
(浅井先生)学会は数々の不正を暴かれるから共産党を恐れております。しかし宗門が大聖人の御遺命を叫ぶのに、どうして共産党ごときを恐れる必要があるのでしょうか。……国立戒壇の否定と正本堂の誑惑は表裏一体です。学会は内外に正本堂の御遺命の事の戒壇と大宣伝しております。このような時、もし国立戒壇を言わなくなったら、正本堂の誑惑は内外にまかり通ってしまうのではないでしょうか」

昭和45(1970)年4月17日
細井日達、浅井先生に電話をかける。
「1.日蓮正宗を国教にしない。2.国立戒壇といわない。民衆立である。3.正本堂を以て最終の事の戒壇とする。4.今日はすでに広宣流布である。だから事の戒壇が立つ。
以上を5月3日に発表する。こうしなければ宗門を統率できない」

昭和45(1970)年4月19日
細井日達、浅井先生に電話をかける。
4月17日の内容のうち「(正本堂を)最終ということは取り消します。そうしなければ今の状勢では宗門のまとまりがつかない。ただ5月3日に『正本堂は事の戒壇』ということだけは言いますよ」と。

昭和45(1970)年4月22日
「臨時時局懇談会」開催
共産党の「質問主意書」のコピーが配られる。
辻武寿総務室長「共産党の攻撃により、いま宗門は危急存亡の時を迎えている。国立戒壇を言えば宗門はつぶされる。学会は共産党と争うつもりはない」
細井日達、「今日は因の姿においてすでに広宣流布である」「戒壇の大御本尊まします所は事の戒壇である」「国教でないものに国立はあり得ない。民衆立の正本堂を事の戒壇として、今日において少しも恥ずることはないと信じる」と説法。

昭和45(1970)年4月23日
学会、政府へ回答
「1.本門戒壇とは、本尊をまつり、信仰の中心とする場所のことで、これは民衆の中に仏法が広まり、一つの時代の潮流となった時、信者の総意と供養によって建てられるべきものである。
2.既に現在、信徒八百万人の参加によって、富士大石寺境内に、正本堂の建設が行われており、昭和47年10月12日には完成の予定である。これが本門戒壇にあたる。
3.一時、本門戒壇を〝国立戒壇〟と呼称したことがあったが、本意は1で述べた通りである。建立の当時者は信徒であり、宗門の事業として行うのであって、国家権力とは無関係である

昭和45(1970)年5月3日
第33回学会総会 (日大講堂)開催
池田大作、国立戒壇の否定・国教化の否定・今日がすでに広宣流布であること・正本堂が御遺命の戒壇であることの4つを明確に述べる。
細井日達、「大聖人の仏法を日本の国教にするなどと仰せられてはおりません。日本の国教でない仏法に『国立戒壇』などということはありえないし、そういう名称も不適当であったのであります。……今日では『国立戒壇』という名称は世間の疑惑を招くし、かえって、布教の邪魔にもなるため、今後、本宗ではそういう名称を使用しないことにいたします」「本門戒壇の大御本尊安置のところは、すなわち事の戒壇であります。……正本堂は本門事の戒壇であります

昭和45(1970)年5月24日
妙信講総会(第14回)開催
浅井先生「もし妙信講が憎いとならば、潰したらよい。しかし正義だけは取り入れて頂きたい。さもなければ国が保たない」

昭和45(1970)年5月26日
早瀬総監・阿部教学部長、浅井先生を法道院に招く
浅井先生「正本堂の誑惑を訂正させるに不退の決意」と

昭和45(1970)年5月29日
浅井先生、秋谷、森田、和泉と会談
細井日達、学会に対し「正本堂は三大秘法抄・一期弘法抄に御遺命された会談ではありません。まだ広宣流布は達成されておりません。どうか学会は訂正してください」

昭和45(1970)年6月11日
浅井先生、秋谷、森田、和泉と会談
森田「今後学会は絶対に『正本堂は御遺命の戒壇』『広布はすでに達成』とは言いません」
浅井先生、確認書の作成を強く求める

昭和45(1970)年8月4日
聖教新聞に「正本堂は御遺命の戒壇」と掲載

昭和45(1970)年8月19日
浅井先生、秋谷、森田、和泉と会談
浅井先生、確認書の作成を強く求める

昭和45(1970)年9月11日
浅井先生、秋谷、森田、和泉、早瀬、阿部と会談
「一、正本堂は三大秘法抄・一期弘法抄にいうところの最終の戒壇であるとは、現時において断定はしない」との確認書を作成

昭和46(1971)年8月20日
阿部教学部長、浅井先生宅を訪れ「妙信講のいうところ大聖人の御意に叶えばこそ、宗門の大勢も変わった。宗門がここまで立ち直れたのも、妙信講のおかげである」と神妙に挨拶