「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」(2)

1、広宣流布を偽る

広宣流布以前に立てた正本堂を〝御遺命の戒壇〟というためには、広宣流布の定義を変えなくてはならぬ。そこでさまざまなたばかりが行われた。

「舎衛の三億」

〝日本人口の三分の一が入信すれば広宣流布〟というこの論法は、池田が云い出し、細井管長が追認したものである。

「舎衛の三億」の典拠は、竜樹菩薩の大智度論に

「舎衛の中に九億の家あり、三億の家は眼に仏を見、三億の家は耳に仏ありと聞くもしかも眼に見ず、三億の家は聞かず見ずと。仏、舎衛に在すこと二十五年、しかも此の衆生は聞かず見ず、何に況んや遠き者をや」とある。

つまり、釈尊が出生し二十五年も居住した舎衛国においてすら、実際に釈迦仏を眼で見た者は全体の三分の一、さらに三分の一は仏のいることを聞いたが見たことはなく、残りの三分の一の「三億」に至っては、見たことも聞いたこともなかったという。これが「舎衛の三億」ということである。

この故事は「見仏・聞法の難き」すなわち仏に値い法を聞くことがいかにむずかしいかということの譬えに過ぎない。したがって日蓮大聖人の仏法の広宣流布とは、何ら関係のない事柄である。

しかしこれが池田の手にかかると次のようになる。

「学会員が日本の総人口の三分の一となり、さらに、信仰はしないが公明党の支持である人たちがつぎの三分の一となり、あとの三分の一は反対であったとしても、事実上の広宣流布なのであります。……またこの『舎衛の三億』は、仏法が信教の自由を認めている厳然たる証拠であります」(大白蓮華40年9月号)と。

結局、三分の二は不信であってもよいというデタラメ広宣流布である。しかもこの不信を許容することが「信教の自由を認めている証拠」というに至っては、語るに落ちている。

「広宣流布は終着点のない流れ自体」

「舎衛の三億」が顕正会の破折によって通用しなくなったとみるや、池田は次のようなことを云い出した。

「広宣流布とは決してゴールインを意味するものではない。なにか終着点のように考えるのは、仏法の根本義からしても、正しくないと思う。……広宣流布は、流れの到達点ではなく、流れ自体である」(大白蓮華45年6月号)と。

広宣流布がもし「流れ自体」ならば、いつでも広宣流布と言い得るではないか。池田のこの論法は、広布の達成すなわち「終着点」を曖昧にするために云い出したものである。

広宣流布には厳然と終着点がある。すなわち「日本一同に南無妙法蓮華経と唱へ」て「勅宣並びに御教書」が申し下されるその一時点こそ、終着点であり、戒壇建立の時なのである。これをごまかそうとするから「終着点のない流れ自体」などといい、また

「一往は正本堂建立が広宣流布の完成といえましょう。しかし再往はこれが終着点なのでなく、新しい広宣流布、すなわち真実の世界の広宣流布の開幕を意味する」(同前)

などと、わけのわからないことになるのである。

「法体の広宣流布が果実を結ぶ」

池田の次の手口は、「法体の広宣流布」のごまかしであった。彼は学会員の増加が正本堂建立に至ったことを誇って

「これこそ日蓮大聖人以来の法体の広宣流布が果実を結んだというべきであり、即、世界への化儀の広宣流布の始まりでもある」(大白蓮華45年6月号)と云った。

「法体の広宣流布」とは、大聖人が本門戒壇の大御本尊を建立あそばされたことを意味する。ならば弘安二年十月十二日に、すでにその果実は結ばれているではないか。どうして正本堂の建立が「法体の広宣流布の果実」となるのか。

また広宣流布を法体と化儀に分けるならば、戒壇建立は化儀の広宣流布の時である。しかるに池田は、日本における「化儀の広宣流布」が達成されたのか、されてないのか、このことにはわざと触れず、正本堂建立が「世界への化儀の広宣流布の始まり」といってごまかしている。

「因に約すれば広宣流布」

細井管長は「今日は因の姿においてすでに広宣流布である」(臨時時局懇談会・45・4・22)と云った。

もし広宣流布を因と果に約して論ずるならば、「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし」(諸法実相抄)であるから、大聖人御一人の御唱え出しこそ因、日本一同に唱え奉る時が果ではないか。そして、戒壇建立は「果」の時なのである。

「いつが広宣流布かは法主上人がきめる」

阿部教学部長はいう。

「いつが現実的な『(広宣流布の)暁』であるか、さらに広布の時機とその建物建立の前後等の決定は、一に法主上人の御判断によるべき処である」(悪書Ⅰ再刊後記)

「戒壇建立の時期についての具体的現実的判断は、これこそ大聖人以来唯授一人の血脈を持たせたもう法主上人の内鑑の御境地による」(同前)

「現在は仏法上いかなる時であるかを決し、宗門緇素にこれを指南し給う方は、現法主上人にあらせられる」(悪書Ⅰ)

「最も大切なことは、遣使還告の血脈の次第から、現御法主を大聖人と仰ぐべきであり、現在においては御法主、日達上人猊下の御意向を仰ぐのが正しい」(悪書Ⅰ)と。

誑惑を正当化するのに「法主」の権威を利用するのが池田そして阿部教学部長の常套手段である。

このようなたばかりが、広布前夜の正系門家に起こることを慮られ、二祖日興上人は

「時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構えば、之を用うべからざること」

と御遺誡あそばされたのである。

だいたい、今が広宣流布かどうか、戒壇建立の時であるかないかは、御金言を本にすれば三歳の童子にもわかることではないか。ごまかそうとするから「法主上人の内鑑の御境地による」などと、もったいぶらなければならないのだ。

御金言を拝せよ。大聖人は広宣流布の姿を

「剰へ広宣流布の時は、日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は、大地を的とするなるべし」(諸法実相抄)と示され、さらに戒壇建立の時を御付嘱状には「国主此の法を立てらるれば」と定め給い、三大秘法抄には「王仏冥合・王臣受持」の時と定め給うておられる。今日まだこの状態に至ってないことは、誰人の目にも明らかではないか。

白を黒といい、天を地といい、東を西というのを誑惑という。御本仏が「大地を的とする」と断言し給うた広宣流布を信ぜず、己義を構えて広宣流布を偽るものは、逆路伽耶陀の一類といわねばならぬ。