「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」(9)

「世界宗教だから国立戒壇はない」

阿部教学部長はいう

「大聖人の仏法は、一国に跼蹐するものでなく、広く世界民衆を救済する世界的宗教の最たるものである。この点から国立戒壇論の執見を教訓したい」(悪書Ⅰ)
「世界宗教としての大聖人の本質より見て、苟も狭い一国の枠における国家主義的な執見に囚われてはならない」(悪書Ⅱ)と。

これも逆さまの論理である。世界宗教だからこそ国立戒壇が必要なのである。

大聖人の仏法が全人類の成仏のための大法であることは、教行証御書に

「前代未聞の大法此の国に流布して、月氏・漢土・一閻浮提の内の一切衆生、仏に成るべき事こそ有難けれ、有難けれ」と。

また報恩抄には

「日本乃至漢土・月氏・一閻浮提に、人ごとに有智・無智をきらはず、一同に他事を捨てて南無妙法蓮華経と唱うべし」と仰せあそばす。

このように、全世界の一切衆生が成仏を遂げさせて頂ける大法、全人類が信じ唱え奉る「本門戒壇の大御本尊」を守護申し上げるのが、三大秘法有縁の日本国の使命なのである。これを「守護付嘱」という。そしてこの付嘱の責務を果す具体的顕現が、実に国立戒壇なのである。

では、なぜ守護を国家がするのかといえば、立正安国論に守護付嘱のいわれを説いて云く

「是の故に諸の国王に付嘱して、比丘・比丘尼に付嘱せず。何を以ての故に、王の威力無ければなり」と。

人類にとってかけがえのない御大法を守護するにおいて、比丘(僧侶)・比丘尼ではその実力に欠ける。ゆえに国家がその責務を全うし奉るのである。

かかる国立戒壇が、どうして「一国に跼蹐するもの」「国家主義的」などの非難を受けようか。万一〝国立〟のゆえに誤解する者があるというならば、堂々とその大精神を説くべきである。

世界の至宝といわれる「ミロのヴィーナス」、ミケランジェロの「奴隷」、ダビンチの「モナリザ」等をはじめ、美術品二十五万点を所蔵するルーブル美術館はフランスの「国立」であるが、「国立」のゆえに偏狭といって非難する者がどこにいようか。

国立戒壇とは、まさしく一閻浮提総与の戒壇の大御本尊を、全人類のために、日本が国家の命運を賭しても守り奉る姿なのである。このような崇高な国家目的を持った国が世界のどこにあろう。かかる仏国こそ、真に世界の尊敬を受ける国家ではないか。

世界宗教と国立戒壇の関係は、何よりも三大秘法抄を拝すべきである。すなわち本門戒壇の大功徳が世界に及ぶことを「三国並びに一閻浮提の人、懺悔滅罪の戒法……」とお示しあそばすと共に、その建立は日本国の広宣流布の時、日本国の「勅宣・御教書」を以てせよ、と仰せられているのである。

「大聖人の仏法の救済対象は国家ではない」

阿部教学部長は次のようにいう。

「大聖人の仏法における救済の対象とその方法について一考したい……大聖人の仏法にあっては、永遠にわたって一人一人の人間の苦を解決し、生命の尊厳とその真義に眼ざめさせるものであり、特殊な権力または権力者のみを対象とするのでなく、すべての人を救済する目的を持たれている。……故にこの人間、或いは人格とは別に、国家意志とか、国家そのものを弘教に利用する目的などは、本来大聖人の仏法には存在しないのである。国家或いは政治そのものと仏法とは次元が違うのであり、同一の立場では論ずべきものではない。故に大聖人の仏法の諫暁はあくまで一箇の人間としての為政者、天皇、国主、権力者ないし一般国民にたいする一人一人の正法への開眼を目標とされているのである。大聖人が立正安国論を鎌倉幕府に提出し諫言あそばされたことは、すなわち国主と雖も仏弟子としての自覚を喚起せしめ、その成仏を図る必要があり……いわゆる国家意志そのものを目標として権力者へ諫訴せられたのではない」(悪書Ⅱ)と。

大聖人が身命を賭して国主を諫暁あそばしたことも、阿部教学部長の翳眼にはこのように映るらしい。教学部長には、個人と国家、国家と仏法の関係が全くわかっていない。いや、わかりたくないようだ。

大聖人が国家を諫暁あそばされたのは〝国家を弘教に利用する目的ではない〟などとは云うも愚か、その御心は実に三大秘法を以て国家を安泰ならしめ、以て一切衆生を救済するにあらせられる。ゆえに立正安国論御勘由来には

「但だ偏えに国の為、法の為、人の為にして、身の為に之を申さず」と仰せ給うのである。

では、一切衆生を救うために何ゆえ国家を諫暁あそばされたのか――。

ここに個人と国家、国家と仏法の関係を凝視する必要がある。およそ人間は、国家を離れては生存し得ない。そのゆえは、人間の生存には集団生活・共同生活が不可欠であり、集団生活がある限り、統制秩序の機能を果す国家がまた不可欠となるからである。すなわち国家は、人間の共同生活の最高一般的な統制組織体として、欠くことのできない存在なのである。

国家と、他の団体・結社との本質的相違はどこにあるかといえば、他の団体は加入・脱退が自由であるが、国家は、人間が生まれながらにしてこれに属し、かつ一方的に離脱することができない。また他の団体は法律・権力による強制をなし得ないが、国家は必要とあらば、物理的強制力を以てしても、個人および団体を服従せしめることができる。

このような国家は何のために存在するかといえば、国家機能の第一は、国内外の危機から国民を守るところにある。内からの危機とは、秩序が崩壊して内乱に至ること、これを仏法では「自界叛逆」という。外からの危機とは、外敵の侵略すなわち「他国侵逼」である。

もし国家が悪法を用い正法に背くならば、自界叛逆・他国侵逼を必ず招来するというのが、大聖人の強き御指南であられる。ゆえに立正安国論に

「若し残る所の難、悪法の科に依って並び起り競い来らば、其の時何んが為んや。帝王は国家を基として天下を治め、人臣は田園を領して世上を保つ。而るに他方の賊来りて其の国を侵逼し、自界叛逆して其の地を掠領せば、豈驚かざらんや、豈騒がざらんや、国を失い家を滅せば、何れの所にか世を遁れん」と仰せられている。

まさに知るべし。国家の安危は全国民の幸・不幸をその中に包含している。もし国家に二難が起これば、国民は塗炭の苦を受ける。ここを以て大聖人は

「一切の大事の中に、国の亡びるが第一の大事にて候なり」(蒙古使御書)

とは仰せられる。国家主義などのゆえではない、一切衆生を救うために「国の亡びるが第一の大事」と仰せられたのである。

すなわち、万民を救うためには国家が安泰でなければならない、国家を安泰たらしめるには国家が正法を立てなければならない。ゆえに大聖人は国主を諫暁あそばされたのである。

この道理がわかれば、〝大聖人の仏法の救済対象は個人であって国家ではない〟などの痴論は、たちまち雲散霧消しよう。

阿部教学部長は云う「国家あるいは政治そのものと、仏法とは次元が違う」と。

いみじくもここに云う「国家あるいは政治」こそ王法そのものである。そしてこの王法が仏法に冥ずべしと御教示されたのが、安国論・三秘抄の御趣旨であられる。

また教学部長は〝大聖人の国家諫暁は国家への働きかけや国家意志を目標としていない。一箇の人間としての国主を、正法に開眼させるため〟とも云う。

しかし、国主が私人・個人として仏法を信じても、国家の安泰にはつながらない。国主が、国家を代表して国家意志を表明すればこそ、始めて国は助かるのである。ゆえに下山抄に

「国主の用い給はざらんに、其れ以下に法門申して何かせん。申したりとも国もたすかるまじ、人も又仏になるべしともおぼへず」とは仰せられる。もし大聖人が「一人一人の正法への開眼を目標」とされ、その中の一人が個人としての国主なら、どうしてこの仰せがあろうか。教学部長の会通が聞きたい。