「最後に申すべき事」(6)

結章 最後に申すべき事

いま翻ってこの三大謗法を見るに、そこに通底しているものは、戒壇の大御本尊に対し奉る不敬冒涜と、汝の大御本尊への信の無さである。
 汝は、国立戒壇に安置し奉るべき戒壇の大御本尊を、国立戒壇を抹殺するための正本堂に長きにわたって居え奉ったが、これほどの不敬冒涜があろうか。また戒壇の大御本尊の敵である身延派悪侶を霊地に招き入れたが、これも不敬冒涜の一語に尽きる。さらに河辺慈篤への大悪言は申すまでもない。
このような悪事を平然となし得るのは、偏えに戒壇の大御本尊に対し奉る信なきゆえではないか。

そして今、信なき汝が強行しているのが、営利を目的とした御開扉である。

一、直ちに不敬冒涜の御開扉を中止せよ

御開扉について、本宗近年の碩学・第五十九世日亨上人は「富士日興上人詳伝」において次のごとく述べておられる。
「開山上人は、これ(本門戒壇の大御本尊)を弘安二年に密附せられて、正しき広布の時まで苦心して秘蔵せられたのであるが、上代にはこのことが自他に喧伝せられなかったが、いずれの時代(中古)からか、遠き広布を待ちかねて特縁により強信により内拝のやむなきにいたり、ついに今日のごとき常例となったのは、もったいない限りである……」と。
この御指南に見るごとく、本門戒壇の大御本尊は広布の暁の国立戒壇に始めてお出ましになる大御本尊であれば、それまでは秘蔵厳護し奉るというのが、本宗の伝統である。ゆえに日興上人・日目上人の上代には御開扉などはあり得なかった。まさしく日亨上人仰せのごとく「弘安二年に密附せられて、正しき広布の時まで苦心して秘蔵せられた」のであった。しかし途中から、遠き広布を待ちかねての、特縁・強信による「内拝」がやむなきにいたった。
しかしこの「内拝」と、汝がいま強行している「御開扉」とは、その精神において天地の差がある。汝が行なっている「御開扉」とは、戒壇の大御本尊を利用し奉っての金儲けである。
日寛上人は
「名利の僧等の、仏法を以て渡世の橋と為すが如し」(撰時抄文段)
と仰せられているが、いま汝は恐れ多くも戒壇の大御本尊を「渡世の橋」とし、収入の手段としているのである。

 御開扉料稼ぎ

このことは汝の日頃の言動が、何より雄弁にこれを物語っている。
昭和五十四年、猊座についたばかりの汝は西片で、「猊座についたら、途端にカネがゴロゴロ転がり込んでくるようになった」と述べたが、この発言は宗内で広く知られている。
また同年十月十日の全国宗務支院長会議では、こうも言った。
「毎日何千人と来る登山会の、その内の、九十パーセント以上が学会員です。本山をお守りし、そして総本山の灯燭をお守りしていてくれるのは、実質的に学会員なのです」
〝学会員こそ本山にとって大切な上得意だから、疎略に扱ってはいけない〟と訓辞しているのである。
ところが御遺命違背の罰により仲間割れが始まり、学会が登山会を中止した。すると汝は、恥も外聞もかなぐり捨て、観光案内よろしく一般紙(平成3・6・5日付)に、登山勧誘の広告を載せて全学会員に呼びかけた。だが、学会員は登山に応じなかった。
そして大聖人の厳たる御仏意により、正本堂が打ち砕かれる。
すると無慚の汝は、こんどは正本堂の基礎の上に大規模な御開扉施設の「奉安堂」を建てた。そして現在、少数の法華講員を鞭打つようにして登山させては収入を図っている。先年の「三十万総登山」では、実数わずか五万人前後の法華講員を期間内に数回も登山させ、さらに員数合わせのため、「御開扉料」だけを出せば員数に加えるという「付け願い」まで奨励した。――これを「御開扉料稼ぎ」といわずして何か。

  秘蔵厳護し奉れ

このような濫りの御開扉は、大御本尊を冒涜し奉るだけではない、恐るべきは、戒壇の大御本尊に害意を懐く悪人に、その隙を与えることである。
魔は仏の化導を阻止せんと常に仏の御命を狙う。されば提婆は大石を飛ばして釈尊を殺害せんとし、末法の景信は大聖人の眉間に三寸の傷を負わせ、平左衛門は御本仏の御頸さえ刎ね奉らんとしたのである。
そして広布の前夜のいま、第六天の魔王が最も忌み嫌うのは戒壇の大御本尊の御存在である。ゆえに魔は悪人どもの身に入って大御本尊を疑難中傷せしめ、それで事が叶わなければ、ついには直接大御本尊に危害を加えんとするのである。
今日、高性能の爆発物を入手することはさして困難ではない。また悪人が、油断だらけの登山会に法華講員を装って紛れ込むことはさらに容易い。
もし万一の事態が惹起したら、汝はいかように責任を取るのか。これは汝の万死を以ても償えるようなことではない。
もとより戒壇の大御本尊は金剛不壊の仏身にてまします。しかしながら、あらゆる事態を想定し厳護し奉ることこそ、仏弟子としての最大の責務ではないか。
安普請の奉安堂では、大規模な天災地夭あるいは核爆発等のテロ・戦乱から、大御本尊を守護し奉ることは難しい。早く、科学技術の粋を集め、事の起きたとき瞬時にして地下深く格納し奉ることも可能な、堅牢の「新御宝蔵」を建設し、いかなる事態にも備え奉らなければいけない。
そしていま直ちに為すべきことは、悪人に隙を与えている御開扉の中止である。
日寛上人の仰せに云く
「問う、文底深秘の大法その体如何。答う、即ち是れ天台未弘の大法・三大秘法の随一、本門戒壇の御本尊の御事なり。乃至、此の本尊は広布の根源なり」と。
かかる、かけがえのない最極無上・尊無過上の法体たる戒壇の大御本尊のご安危こそ、まさしく一閻浮提第一の大事である。
されば直ちに濫りの御開扉を中止し、近き広布のその日まで、日興上人・日目上人の御心のまま、もっぱら秘蔵厳護し奉るべきである。

 二、速やかに退座し謹慎せよ

汝の犯した三大謗法の罪業が、いかに深く重いものか。重ねて言おう――汝は御本仏一期の御遺命を破壊せんとし、戒壇の大御本尊を偽物と断じ、身延の謗法僧を大石寺に招いたのである。
もし現身の改悔がなければ、後生の大苦は断じて免れない。而して真の懺悔とは、世親のごとく馬鳴のごとく吉蔵のごとくでなくてはならない。
世親は大乗を誹謗したが無著菩薩に値って忽ちに邪見を翻し、その罪を滅せんがために舌を切らんとした。しかし無著に止められて五百部の大乗論を造ったという。
また馬鳴は外道の長であったとき、勒比丘と内外の邪正を論じて改悔し、重科を償わんと自ら頭を刎ねんとした。しかし勒比丘に「その頭と口を以て大乗を讃歎せよ」と諫められ、直ちに起信論を造ったという。
また吉蔵は天台大師に邪執を打ち摧かれるや、謗法の重罪を滅せんがため、身を肉橋として天台に仕えたという。
これらの賢人は、後生の堕獄を恐れるがゆえにこの改悔を示したのである。ゆえに富木殿御書には
「智人は恐怖すべし、大乗を謗ずる故に。天親(世親)菩薩は舌を切らんと云い、馬鳴菩薩は頭を刎ねんと願い、吉蔵大師は身を肉橋と為す」と。
汝の謗法は御本仏に対し奉るものであれば、この三人の謗法に過ぎること百千万億倍である。しかも小生の諫暁はすでに三十五年に及んでいる。なぜに改悔をしないのか。なぜに世親・馬鳴が大乗論・起信論を造ったごとく、国立戒壇を讃歎して罪を滅しようとしないのか。

現世の罰を見て、後生を恐れよ――
前車の覆るは後車の誡めである。まず細井前管長の臨終を見よ。同管長は正本堂が完成するや、忽ちに池田と不和を生じ、その鬩ぎ合いに性心を労したあげく、臨終思うようにならずして急死を遂げているではないか。貫首の最大の責務たる御相承もなし得なかったこの頓死は、何を示しているのか。それは、たとえ時の貫首であっても、御遺命に背くなら忽ちに貫首の徳を失う。ゆえに御相承の「授」が叶わなかったのである。
また汝は、より深く御遺命に背いている。ゆえに「受」が許されなかった。御付嘱状を拝見すれば
「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」と。
この御付嘱状の骨目は、まさしく戒壇の大御本尊の付嘱と、国立戒壇建立の御遺命にあられる。そしていま汝は、この二つ共に否定しているのである。どうして付嘱が許されようか。厳然の御仏意、深く恐れなくてはいけない。
しかるに汝は、細井管長の急死を奇貨として、池田大作と心を合わせて恐れげもなく猊座を簒奪した。池田は汝を通して宗門支配を実現せんとこれを後押したのであろうが、いまはこれを置く。

この登座の四ヶ月後(昭和五十四年十一月)、小生は汝に「諫状」を送附した。その末文に云く
「ここに日顕上人たとえ管長職に即くとも、もしこの大科を改悔しなければ、仏法の道理の指すところ、一身に罰を招くは必定であります」と。

  現世の罰を見よ

果して、その後の罰はどうであったか――
わずか一年数ヶ月後、正信会僧侶から「相承疑惑」が噴出し、その争いは法廷闘争にまで発展した。業を煮やした汝は、反抗する正信会僧侶を次々に宗門追放し、その数、実に二百余名に及んだ。これほど大量の僧侶が「時の貫首」の相承を疑い、かつ擯斥されたということは、宗門史上未だ曽てない。

そして正信会騒動の次には、さらに深刻な学会との抗争が待っていた。平成二年四月、小生は「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」の諫暁書を汝と池田に送附した。この諫暁書は、一枚岩のごとくに見えた宗門・学会の間に亀裂を生ぜしめた。池田は、曽て細井管長が揺れ動いたように汝もまたこの諫暁書に怖畏を生じて「本門寺改称」を躊躇するのではないかと疑念を懐き、経済封鎖をもって威し従属させようとした。汝はこれに反発し、大石寺開創七百年法要における「本門寺改称宣言」の約束を反故にした。
ここに凄まじい抗争が勃発した。その醜悪にして凄惨なる争いは、まさに報恩抄に仰せの「修羅と悪竜の合戦」そのものであった。
まず平成二年末、汝は池田の総講頭職を剥奪する。これより悪罵の応酬が始まる。池田が「法滅の妖怪」「三毒強盛の極悪日顕」と罵れば、汝も「顛狂の大謗法者」「€慢無類の莫迦者」と詈る。
また平成三年十一月に汝が学会を破門すれば、池田はその翌月に一千六二五万人の署名を以て「退座要求書」を突きつけた。
平成四年には、多くの僧侶が汝に叛旗を翻し池田のもとに走った。彼らは「改革同盟」あるいは「憂宗護法同盟」なるグループを結成して、池田を助けた。その中に同年十一月、細井管長の二男で実修寺住職・細井琢道が宗門離脱をしたことは、一つの意味で、看過し得ぬ重大問題を孕んでいる。
学会はさらに汝の醜行を暴く。「シアトル事件」「芸者遊興写真」等、僧侶にあるまじき汝の遊蕩ぶりが相次いで公表された。汝は名誉毀損の提訴を以てこれに対抗した。ただし自身の出廷を避けるため、提訴の原告はいずれも「日蓮正宗」とした。
そして平成六年十二月にいたって、学会は始めて相承疑惑を暴く。何もかも知っていながら、池田は周到に時を待っていたのである。これを見て汝は身を守るため、「大嘘つき」の山崎正友を味方に引き入れ、相承の偽証をさせようとした。これより身延派との交流が始まったことは前に述べた。
そして思いもかけぬことが起こった。それは、汝自身が「シアトル事件」裁判の法廷に引き出される羽目に陥ったことである。出廷は平成九年十二月二十二日、翌年二月二日、五月十八日の三回にわたった。手ぐすね引いて待っていた学会弁護団は、嬲るように汝の醜行を克明にあばき、耐えがたき恥辱を与えた。
怒り心頭に発した汝は、池田が最大の誇りとしていた正本堂をついに打ち壊わしてしまった。池田が「末法事の戒壇にして宗門究竟の誓願之に過ぐるはなく、将又仏教三千余年史上空前の偉業」と誇り、宗門全僧侶も「御遺命の戒壇」と諂い讃えた正本堂は、ここに地上からその姿を永久に消したのであった。
この不思議を何と見る――
無慚の汝にはわかるまいが、すべてはこれ、大聖人様の厳然の仏意・仏力の所作であられる。
大聖人様は、かかる大それた御遺命違背を断じて許し給わぬのである。ゆえに顕正会をして諫暁せしめ、諸天をして自界叛逆せしめ、ついに正本堂を崩壊せしめ給うたのである。
翌十一年七月には、諸天はさらに河辺慈篤をして「メモ」を流出せしめる。ここに汝の隠された醜い正体は、余すところなく白日の下に晒された。すべては、仏意の所作と拝し奉る以外にはない。
さらに平成十四年には、池田のもとに走った離脱僧の寺院明け渡し裁判で、相承を受けた証拠を示すことが出来なかったことにより、敗訴が確定した。また汝の醜行をめぐって自ら起こした裁判も、相次いで敗訴、あるいは自ら訴えを取り下げざるを得なくなり、世間に恥をさらした。

かくのごとく汝の登座以後の二十六年を見れば、現罰は歴然ではないか。すなわち前半は正信会の叛乱に懊悩し、後半は学会との「修羅と悪竜の合戦」に嘖まれて満身創痍。一日として心安き日はなかったであろう。
このように二十六年もの間、「詐称法主」といわれ続け醜行を暴かれ続け、一国にその恥辱をさらした「貫首」が何処にあろうか。これが、御本仏に背き奉った現罰なのである。

  後生の大苦を恐れよ

だが、後生の大苦はこれとは比較にならない。佐渡御書に云く
「是れは華報なるべし、実果の成ぜん時、いかが歎かはしからんずらん」と。
もしこの大苦を免れんと願うならば、世親・馬鳴が大乗論・起信論を造って大乗を讃歎したごとく、汝もまた国立戒壇を讃歎して大罪を滅せよ。もしそれが為し得ぬなら、せめて早く猊座を退き、謹慎せよ。

これが小生の最後の諫めである。もしこの言を卑んで一分の改悔もなければ、後生の大苦こそまさに恐るべし。
顕立正意抄の仰せに云く
「我が弟子等の中にも信心薄淡き者は、臨終の時阿鼻獄の相を現ずべし。其の時我を恨むべからず」と。

以上、用捨は貴殿に任す。小生はただ謹んで
御本仏日蓮大聖人に言上し奉り、御裁断を仰ぎ奉るのみである。

平成十七年八月二十七日

冨士大石寺顕正会会長
淺井昭衞

  日蓮正宗管長
阿部日顕殿