「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」(11)

6、正本堂の正体

詮ずるところ正本堂は、政治野心と名利に燃える池田大作と、それに諂う細井管長・阿部教学部長との、大聖人の御眼を恐れぬ癒着より生じた大誑惑である。

しかし誑惑というものは、いかに深く巧みであっても必ず馬脚を露わす。「一切は現証には如かず」(教行証御書)と。ここにその現証を示そう。

見よ! 正本堂落成の直後に起きた学会と宗門との抗争を――。池田はたちまち学会員の登山を禁じて総本山を経済封鎖し、細井管長はこれに対抗して一山の僧侶を集めて云く

「これはもう、このままじゃ話にもならない。もしどこまでも学会が来なければ、それは正本堂を造ってもらって有難いけれども……もし学会が来なくて、こっちの生活が立たないと云うならば、御本尊は御宝蔵へおしまいして、特別な人が来たならば、御開帳願う人があったら御開帳してよいと云う覚悟を、私は決めた」(宗門の現況と指導会・49・7・27)と。

正本堂とは、このていの建物である。なにが「大聖人御遺命の戒壇」、なにが「宗門七百年の悲願」であろうか。正本堂がもし御遺命の戒壇ならば、その完成直後にどうして〝有徳王〟と〝覚徳比丘〟がこのような醜い争いをするであろうか。この下劣な抗争こそ、まさに〝悪事の仲間割れ〟ではないか。正本堂の正体は、この現証によってはしなくも露呈している。

まさしく正本堂は、上は御本仏大聖人に背き奉り、さらに二祖日興上人より六十五世日淳上人に至るまでの歴代先師に違背し、下は日蓮正宗全信徒をたぶらかし、また外には一国を欺いた「誑惑の殿堂」というべきものである。

このような大それた誑惑が、なぜ正系門家・日蓮正宗の中に起きたのであろうか――。その本質を仏法の眼で見れば、これこそ、第六天の魔王が広布前夜の正系門家を狙い、大檀越と高僧の身に入って御本仏の御遺命を破壊せんとしたものに他ならない。

最蓮房御返事に云く

「第六天の魔王、智者の身に入りて正師を邪師となし、善師を悪師となす。経に『悪鬼其の身に入る』とは是れなり。日蓮智者に非ずと雖も、第六天の魔王我が身に入らんとするに、兼ての用心深ければ身によせつけず」

また聖人御難事に云く

「すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」と。

いま正系門家の大檀越ならびに高僧等、信心はうすく名聞利養の心は深きゆえに、天魔便りを得て、この壊乱をなさしめたのである。