上野殿御返事(たばかりの恐ろしさ)

宗門の輩は、もっぱら巧妙な「たばかり」を用いて、顕正会、そして浅井先生への信を薄くさせてきます。

かつて先生は「たばかり」の恐ろしさについて「上野殿御返事」講義において指導くださいました。

この上野殿御返事は、大聖人御在世において、怨嫉者たちが富士地方の若きリーダーであった上野殿をたぶらかして大聖人の御門下の分裂を企てようとしたとき、大聖人様が「魔を魔と見破り一筋の信心を貫け」と大慈悲の教誡をくだされた御書です。

以下に講義の要旨を転記します。

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■本抄御述作の背景

大聖人様が身延御入山後、日興上人は富士の裾野において、猛烈な折伏を展開あそばされた。この弘通が開始されてより三年目が、本抄を御述作された建治三年である。

この頃になると、富士熱原地方に入信の人々が相次ぎ、邪宗の僧および幕府の妨害も、だんだん激しくなって来た。熱原の大法難の前ぶれである。

富士一帯の信徒の中心者は若き上野殿であった。上野殿はこの時わずか十九歳。しかし父の跡を継いで地頭職に在り、信心もまた父子二代にわたりその信心は鉄石、そして性格も温和で重厚、ゆえに若くとも、富士地方の信徒の中心者であった。

謗法者は、この若き上野殿の退転を謀ったのである。味方のような顔をしては上野殿に近づき、大聖人への信を薄くさせようと、さまざまなたばかりをした。

この時、上野殿の御報告により大聖人様が、魔のたばかりを見抜いて毅然と立つよう御激励下されたのが、本抄である。

まさに本抄こそ、弘安二年の出世の御本懐という大仏事を前に、競いおこる魔障を乗り切る用心を、上野殿に御教示下された御書と拝すべきである。

■本抄の大意

「釈尊が法華経を説かんとする時にも大難があったことを例として、末法下種の本仏日蓮大聖人が三大秘法を弘める時には、釈尊在世にもまさる大難があることを示され、いま大聖人を信じ切る上野殿に対し、大聖人への信を薄くさせんとする魔のたばかりを見抜き、捨身の信心に立つことを促がし給うた有難い御書である」と。

ついで講義は本文に入った。

■たばかりは恐ろしい

「尹吉甫(いんきっぽ)と申せし人はただ一人の子あり、伯奇(はっき)と申す。親も賢なり、子もかしこし、……われを懸想すると申しなして、うしなはんとせしなり」については

「たばかりはいかに恐ろしいかということを、まず実例をあげてお示し下さる一段である。“たばかり”とはウソをついて人をおとしいれることである。たばかりにあえば、賢人までもだまされる。

尹吉甫と伯奇の父子は共に賢く、父は子を信じ子は父を敬い、この二人の仲は誰も裂くことが出来ないと思われていた。しかし父が後妻をめとってより、この後妻のたばかりによって、父がついに子を誤解し父子二人の仲がさかれたという。

この実例を挙げて、大聖人様は上野殿に対し、大聖人への信を薄くさせようとする謗法者たちのたばかりを見抜けと御教示下されているのである。

釈尊の時も、提婆や瞿伽梨がウソをでっち上げては、人々の釈尊への信を薄くさせようとしたことがある。提婆の虚誑罪、瞿伽梨の欺誑罪というのがこれである。

いま御遺命を守り奉る顕正会に対し、学会やその手先の痴犬が盛んにウソを宣伝するのも、みなこのたばかりである」と。

■提婆のたばかり

びんばさら王と申せし国王は賢王なる上、仏の御だんなの中の閻浮第一なり。……国をたび、たからをほどこし、心をやわらげすかししかば、一国の王すでに仏の仏の大怨敵となる」については

「釈尊が法華経を説かんとした時、悪人の提婆が、どのようなたばかりをしたかということを、ここにお示しである。

提婆は釈尊に深いねたみ心を懐き、終始釈尊に敵対した悪人である。

びんばさら王という賢王が釈尊に帰依し、王と仏が一体となりまさに法華経が説かれんとした時、これを怨嫉した提婆は、まずびんばさら王をおとし入れようと、王の太子である阿闍世王に近づき、さまざまなたばかりをして阿闍世王をそそのかし、ついに父のびんばさら王を殺させてしまった。

以来、提婆は阿闍世王と心を合わせ、全印度の外道・悪人を集め、彼らに種々の財宝を与えてはその心を取り、釈尊に敵対する大勢力を作り上げたのである」

■第六天の魔王

欲界・第六天の魔王、無量の眷属を具足してうち下り、摩竭提国の提婆・阿闍世・六大臣等の身に入りかはりしかば、形は人なれども力は第六天の力なり。……結句は提婆達多、釈迦如来の養母・蓮華比丘尼を打ちころし、仏の身より血を出せし上は、誰の人か方人になるべき」については

「この大宇宙には、仏法を守護する諸天善神と、仏法を妨害する魔の生命活動とが、本来具わっている。この魔の生命活動の中心的存在を『第六天の魔王』という。天界の中の六欲天に住んでいるところから“第六天の魔王”というのである。

この第六天の魔王は、仏様が御化導をされる時、必ず自ら打ち下って悪人の身に入り、御化導を妨害する。

ここに釈尊が法華経を説かんとした時、提婆・阿闍世等の身に第六天の魔王が入り、凄じい妨害をしたのである。ゆえに提婆・阿闍世等の悪行ぶりを『形は人なれども、力は第六天の力なり』と仰せられるのである。

そして提婆はついに、釈尊の教団を分裂させる『破和合僧』と、仏弟子を殺した『殺阿羅漢』と、仏の身から血を出す『出仏身血』の三逆罪を犯し、生きながら大地われて無間地獄に堕ちた。

しかし提婆の悪の力が盛んな時は、釈尊の力もこの悪人には及ばないのではないかと、人々の目に映ったのである」と。

■釈尊の予言

かくやうやうになりての上、いかがしたりけん法華経をとかせ給いぬ。此の法華経に云く『而も此の経は如来の現在にすら猶怨嫉多し、況や滅度の後をや』と云々」については

「釈尊は、提婆・阿闍世等の妨害により無量の大難を受けたのち、ようやく法華経を説かれたのである。その法華経に

『此の経は如来の現在にすら猶怨嫉多し、況や滅度の後をや』

とある。どういうことかと云えば“釈尊の在世ですら、法華経を説く時にはこのような怨嫉・大難がある。いわんや滅後末法の悪世に、法華経の肝心たる三大秘法を弘めるにおいておや”ということである。

法華経には、三大秘法という唯一の成仏の法が、寿量品の文の底に沈められている。ゆえにこの法華経を説く時には大魔障があるのである。

そして末法には御本仏が出現せられ、法華経の本門寿量品の文底に秘沈されている下種の大法を取り出してお弘め下さる。これが三大秘法であり、その実体が本門戒壇の大御本尊である。この時、釈尊在世以上の大難が必ずおこるのである」

■大聖人こそ末法の御本仏

虎うそぶけば大風ふく、竜ぎんずれば雲をこる。野兎のうそぶき、驢馬のいばうるに、風ふかず、雲をこる事なし。愚者が法華経よみ、賢者が義を談ずる時は、国もさわがず、事もをこらず、聖人出現して仏のごとく法華経を談ぜん時、一国もさわぎ、在世にすぎたる大難をこるべしとみへて候」については

「虎や竜がうそぶけば、風雲が巻きおこる。しかし兎やロバが鳴いても風雲はおこらない。

同じように、法華経の意味もわからぬ愚者が法華経を読み、あるいは天台・伝教のような賢人が法華経の義を論じているだけでは、一国に怨嫉は起こらない。

しかし、もし聖人が出現して、法華経の文底より下種の三大秘法を取り出して一切衆生を成仏せしめんとするならば、必ず一国に怨嫉がまき起こり、釈尊在世以上の大難がおこるのであると。

この『聖人』とは、誰人におわするか。三大秘法のゆえに流罪・死罪の大難を招かれた日蓮大聖人以外には、断じてあるべくもない。まさに大聖人こそ、釈迦仏がその御出現を予言した、末法下種の御本仏であられる」と。

■信を薄くさせるたばかり

賢人までも人のたばかりはおそろしき事なれば、一定法華経すて給いなん」については

「尹吉甫の例にあるごとく、賢人であっても人のたばかりにはひっかかる。たばかりほど恐ろしいものはない。

謗法者らは、さも上野殿の身を案ずる味方のような顔をして“日蓮房を信じてさぞ迷惑しているだろう、幕府からも憎まれるであろう”と大聖人への信を薄くさせるさまざまなウソをついて、上野殿を退転させようとしている。

この“魔のたばかりを見抜きなさい”と、仰せられるのである」と。

■欲深く、心臆病の者

日蓮が弟子に、少輔房と申し、能登房といゐ、なごえの尼なんど申せし物どもは、欲ふかく、心臆病に、愚痴にして而も智者となのりしやつばらなりしかば、事のをこりし時、たよりを得て多くの人をおとせしなり」については

「少輔房・能登房・名越の尼等は、竜の口の大法難の時に退転し、大聖人様に叛逆した者共である。しかも自分一人だけで退転したのではない。自分の退転を正当化するために、大聖人を誹謗し、一人をおとせば、それをひっかけにして多くの者を退転させたのである。

これらの輩の共通の特徴は、欲が深く、心が臆病であり、仏法の道理もわからぬくせにわかった顔をする。すなわち名利が強いのである。

熱原の大法難の時も、大進房・三位房等は、名利のゆえに日興上人に怨嫉し、そして欲ふかきゆえに謗法者の誘惑にひっかかり叛逆している。

このように、大仏事の前には、必ず魔の働きにより内部から退転者が出て、みなの信心を乱さんとする。これが仏法の定理である。

いま広布の前夜、そして正系門家において御遺命まさに失せんとし、明年には本門寺改称の陰謀さえも企てられている。この時、顕正会が大聖人様への忠誠心により、二十万の法城を築いて大事の御遺命を守らんとしているのである。

これを見て、第六天の魔王がどうして手をこまねいて傍観しているであろうか。必ずや顕正会の御奉公を妨害しようとするのは当然である。

ここに昨年来、外部からの顕正会に対する悪口中傷が始まったのである。しかし外からでは事ゆかなければ、魔は今度は内を狙う。すなわち信心不純で欲ふかく、しかも名利の強い者の身に入って、組織を乱そうとする。

私は、このような魔障が起こらなければ、顕正会の御奉公は本物ではないとすら、思っている」

■広宣流布は一時に

ただをかせ給へ、梵天・帝釈の御計として、日本国一時に信ずる事あるべし。爾時、我も本より信じたり、信じたり、と申す人こそ多くをはせずらんめとおぼえ候」については

「広宣流布は必ず来る」との、鉄石のごとき御確信をお示し下された一文である。

梵天・帝釈等の諸天善神の働きにより、日本国中が一時に信じ、南無妙法蓮華経と唱える時が必ず来る。その時には、いままで反対していた者までも“自分は本から信じていた”などというであろうと。

大聖人御在世の蒙古の襲来も諸天の働きによる。この他国侵逼の恐ろしさから、一国一同の生命の奥に、南無妙法蓮華経は刻みつけられ下種された。これが御在世の逆縁広布である。

そして未来順縁広布の時も、諸天が働くのである。すなわち大聖人の御遺命を奉ずる仏弟子の大集団がしんしんと折伏を行じ諫暁する時、それに対応して一国の謗法もその極に達する。

この時、大聖人の御力により諸天が働き、日本は危急存亡の時を迎える。この大現証を見て一国大衆は身を惜しみ国を惜しむゆえに、『南無日蓮大聖人・南無妙法蓮華経』と、掌を合わせるのである。

しかし一国広布の前に、必ず正系門家が一時に御在世の信心に立ち戻る現証がある。これこそ広宣流布のモデルケースである。

いま“国立戒壇は大聖人の教義ではない”などとみな云っているが、顕正会の御奉公により諸天が動き、宗門全体が一時に国立戒壇の正義に立ち戻る時が来る。

その時“私は本から国立戒壇が正しいと思っていた”などという者が多く出るであろう。

顕正会は、ただ大聖人様の御心のまま、御遺命守護、そして一国広布へ、体をぶつけて御奉公しようではないか」と。