「顕正会も正本堂に賛同した」のタバカリ(1)

宗門は「御遺命破壊」の大罪を責められると、論点をすり替えるために様々な詭弁を駆使します。

その一つに、

〝顕正会も昭和40年3月の「正本堂建立御供養趣意書(以下、「趣意書」という)」の内容に賛同したから正本堂の御供養に参加した。だから顕正会が正本堂についてとやかくいう資格はない。〟

というものがあります。

これは、御遺命破壊に加担した宗門が、その大罪から話を逸らすための、典型的な「論点ズラし」です。詭弁に惑わされないようにしましょう。

まず、この「趣意書」について若干説明します。これは正本堂の供養を募るために、正本堂を御遺命の戒壇と位置づけ、供養を募るために池田大作が打ち出したものです。

この趣意書のキモは、昭和40年2月16日の第1回・正本堂建設委員会の席上、細井日達が「正本堂が御遺命の戒壇にあたる」旨の説法をしたとして、「(細井日達から)かねてより、正本堂建立は、実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成であるとうけたまわっていたことが、ここに明らかになった」と記したことです。

池田大作は、宗門の最高権威である「法主」の名を以て正本堂を御遺命の戒壇と位置づけたのでした。

そこで宗門は、浅井先生もこの趣意書に賛同して正本堂の供養に参加したのだから、“顕正会も正本堂が御遺命の戒壇だと認めていたのであろう”と言いたいわけです。

御遺命破壊に加担したという論点を逸らすための、巧妙な詭弁ですね。

では、宗門がいうように、浅井先生はこの趣意書に賛同されたのでしょうか。

その答えは、否です。浅井先生はいささかも賛同などしていません。

主だった理由を記します。

(1)昭和44年2月11日の「宗務院・連合会」の連絡会議の席にて、妙信講を嫉視する法華講連合会委員長・平沢益吉から、妙信講指導教師の松本日仁住職を通して浅井先生に四箇条の詰問状が突きつけられました。
このうちの一箇条は「今の正本堂は事の戒壇ではない。奉安殿が狭くなったので、広い処へ移すためだけのものである、と妙信講では指導している」との内容で、平沢益吉は「許し難い。返答の次第では池田大作総講頭に伝え、妙信講を取り潰して見せる」と凄んだといいます。

もし正本堂の意義に賛同していたというのなら、平沢益吉がこのような発言をするはずがありません。

(2)また、もし賛同したというのなら、昭和45年3月以降、浅井先生が連々たる諫暁を行う理由はありません。

(3)さらに、「国立戒壇の名称を使用しない旨の宗門の公式決定に違反し、更にまた昭和47年4月28日付『訓諭』に対して異議を唱えたゆえ」との理由で解散処分を受けるはずがありません。

これらの事実こそ、浅井先生が正本堂の意義に賛同していない何よりの証左です。当たり前の話です。

(4)一方、邪義班文書(※注)ですら、「池田大作が正本堂を三大秘法抄の御遺命の戒壇であると発言するに至った当時の宗門の状況に対して、汝ら妙信講が反対を表明したことは事実である」と記しています。

(※注、平成17年に浅井先生が、対決申し入れを逃避した阿部日顕にあてた「最後に申すべき事」に対する悪書のこと)

(5)阿部日顕も、学会との抗争後、「顧みれば、あの当時、正本堂を何とか御遺命の戒壇として意義づけようとする池田会長と学会大幹部の強力な働きかけや、妙信講の捨て身の抗議があり、その間にあって宗門においても、正本堂の意義がいろいろ考えられました」(平成3年3月9日)と告白しています。

これら邪義班や阿部日顕自身が、正本堂の意義づけについて「妙信講の捨て身の抗議」があったと記し、顕正会が正本堂の意義に賛同していないことを証明しているではないですか。

さて、当時の妙信講がなぜ正本堂の御供養に参加したのかについては、浅井先生が「最後に申すべき事」や「試練と忍従の歴史」に詳細を記しておられます。

これは顕正会が正本堂の供養に参加した背景を理解するうえで大事なことなので、少し長くなりますが「最後に申すべき事」の一節を以下に引用します。

顕正会が正本堂の供養に参加したのは事実である。

だがそれは――正本堂を奉安殿の延長として、国立戒壇建立の日まで戒壇の大御本尊を秘蔵厳護し奉る堂宇、すなわち「大御宝蔵」「大奉安殿」として供養に参加したのである。

事実、正本堂の建立寄進を細井日達管長に申し出た池田大作も、最初は正本堂と広布の暁に建てられるべき本門戒壇とを、明確に区別していた。彼が始めて正本堂建立寄進を発表したのは、昭和三十九年五月三日の学会総会においてである。

「総本山日達上人猊下に、正本堂を建立、ご寄進申し上げたい。(中略)正本堂の建立は、事実上、本山における広宣流布の体制としてはこれが最後なのであります。したがって、あとは本門戒壇堂の建立を待つばかりとなります」(聖教新聞 昭和39・5・3)と。

この時点では、明らかに正本堂は奉安殿の延長、すなわち「大奉安殿」の意が明瞭であった。

だが、これより九ヶ月後、池田はこの正本堂を「御遺命の戒壇」とすり替えるため、これを細井管長の口から言わせようとした。それが昭和四十年二月十六日の第一回正本堂建設委員会における細井管長の説法となる。

池田はこの説法を以て「正本堂建立は実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成である」と宣伝した。

しかしこの時の細井管長の説法は趣旨きわめて曖昧にして玉虫色、与えて論ずれば正本堂を奉安殿の延長としているごとくであり、奪ってこれを論ずれば池田の誑惑に同ずるというものであった。

なぜこのような曖昧な説法になったのかといえば、一方に池田の要請があり、一方に御本仏の御遺命に背くことの恐ろしさを感じていたゆえと思われる。

そして細井管長は、この曖昧な説法のあとも池田の宣伝とは関わりなく、同年の学会総会、また法華講集会においても、正本堂の意義については、ただ

「戒壇の大御本尊を安置し奉るところの正本堂」(昭和40・5・3学会総会)

「大客殿の奥深く戒壇の大御本尊を安置し奉ることは、本宗の相伝であります」(昭和40・8法華講連合会大会)

とのみ述べている。この「大客殿の奥深く」とは、紛れもなく広布の暁を待つ御宝蔵の意なのである。

さらに、昭和四十年九月に発布された正本堂の供養勧募の「訓諭」においてさえ、正本堂を御遺命の戒壇とは一言もいわず、ただ

「日達、此の正本堂に本門戒壇の大本尊を安置して、末法一切衆生の帰命依止、即身成仏の根源となさんと欲するなり。宗内の僧俗は、一結して今生に再度となき此の大事業に随喜して自ら資力の限りを尽して供養し奉り、信心の一端を抽んでられんことを望む」

とだけ宣していたのである。

このように、正本堂が広宣流布のその日まで、国立戒壇建立のその日まで、戒壇の大御本尊を秘蔵厳護し奉る堂宇であれば、供養の赤誠を尽くすのは信徒として当然である。ゆえに顕正会はこの供養に参加したのである。

一方、学会においては前述のごとく、細井管長の最初の説法以来、正本堂を〝御遺命の戒壇〟と、しきりと宣伝した。

しかし小生は「然るべき時に、必ずや猊下がこの誑惑を打ち摧いて下さる」と期待していた。

それは日興上人の御遺誡に

「衆議たりと雖も仏法に相違有らば、貫首之を摧くべき事」

とあるからである。ことは宗門の一大事たる戒壇建立に関わること、しかも細井管長の説法を根拠として池田の誑惑が進められているのであれば、この「仏法相違」を打ち摧くのは、貫首一人の責務であり権能でもあった。

だが細井管長は、その後もただ黙しているだけであった。

そして、顕正会のこの供養参加に対し、池田の傀儡となっていた法華講連合会が、「妙信講にはさせない」と騒ぎ出し、本山をも動かした。

かくて顕正会の赤誠の供養は、無残にも本山から突き返されたのである。この背後に池田の意志があったことはいうまでもない。彼の目には、全宗門僧俗が己れの威を恐れ随う中に、ひとり正本堂を事の戒壇といわぬ顕正会の存在が目障りに映ったに違いない。そこで「法主の意」として供養金を突き返し、その衝撃で顕正会を窒息死させようとしたのである。

時の総監・柿沼広澄が法華講連合会の平沢益吉委員長に「これで妙信講は空中分解する」と伝えたのも、この時であった。

一方、全僧侶の諂いに意を強くした池田大作は、誑惑の悪言をいよいよエスカレートさせた。

昭和四十二年五月の学会総会では、三大秘法抄を引用した上で

「この戒壇建立を、日蓮大聖人は『時を待つ可きのみ』とおおせられて、滅後に託されたのであります。以来、七百年、この時機到来のきざしはなく、日蓮大聖人のご遺命は、いたずらに虚妄となるところでありました。だが『仏語は虚しからず』のご金言どおり、(中略)七百年来の宿願である正本堂建立のはこびとなったのであります」

さらに同年十月の正本堂発願式では

「夫れ正本堂は末法事の戒壇にして、宗門究竟の誓願之に過ぐるはなく、将又仏教三千余年史上空前の偉業なり」

と発誓願文を読み上げた。

これを承けて学会発行の書籍も一斉に、正本堂を御遺命の戒壇と断定するようになった。折伏教典には

「戒壇とは、広宣流布の暁に本門戒壇の大御本尊を正式に御安置申し上げる本門の戒壇、これを事の戒壇という。それまでは大御本尊の住するところが義の戒壇である。(中略)昭和四十七年には、事の戒壇たる正本堂が建立される」

仏教哲学大辞典には

「日蓮大聖人は本門の題目流布と、本門の本尊を建立され、本門事の戒壇の建立は日興上人をはじめ後世の弟子檀那にたくされた。(中略)時来って、日蓮大聖人大御本尊建立以来六百九十三年目(昭和四十七年)にして、宗門においては第六十六世日達上人、創価学会においては第三代池田大作会長の時代に、本門の戒壇建立が実現せんとしている」

「正本堂建立により、日蓮大聖人が三大秘法抄に予言されたとおりの相貌を具えた戒壇が建てられる。これこそ化儀の広宣流布実現である」と。

まことに天を地といい、白を黒といいくるめるほどの欺瞞、誑惑、たばかりである。

これを見て、宗門高僧らも、先を争うようにこの大誑惑に双手を挙げて賛同した。彼らは、大聖人の御眼よりも、池田大作に睨まれるのを恐れていた。池田の寵を得て栄達することを願っていたのである。

その最右翼が、教学部長・阿部信雄であった。汝の正本堂発願式における諛言を引こう。

「宗祖大聖人の御遺命である正法広布・事の戒壇建立は、御本懐成就より六百八十数年を経て、現御法主日達上人と仏法守護の頭領・総講頭池田先生により、始めてその実現の大光明を顕わさんとしている」(大日蓮 昭和42年11月号)

御遺命の事の戒壇が昭和四十七年に実現する、と言い切っているではないか。宗門の教学部長の発言であれば重大である。

これに続いて高僧らの阿諛が続く。

佐藤慈英宗会議長は

「この正本堂建立こそは、三大秘法抄に示されたところの『事の戒壇』の実現であり、百六箇抄に『日興嫡々相承の曼荼羅をもって本堂の正本尊となすべきなり』と御遺命遊ばされた大御本尊を御安置申し上げる最も重要な本門戒壇堂となるので御座居ます」(同前)

椎名法英宗会議員は

「『富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ』との宗祖日蓮大聖人の御遺命が、いま正に実現されるのである。何たる歓喜、何たる法悦であろうか」(同前)

菅野慈雲宗会議員は

「正本堂建立は即ち事の戒壇であり、広宣流布を意味するものであります。この偉業こそ、宗門有史以来の念願であり、大聖人の御遺命であり、日興上人より代々の御法主上人の御祈念せられて来た重大なる念願であります」(同前)と。

そして翌昭和四十三年一月には、細井管長までもが露わな誑言を述べるようになる。

「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」(大白蓮華昭和43年1月号)と。

昭和四十七年の正本堂完成時を以て「御遺命は成就」「広布は達成」と、ついに言い放ったのである。

そのような空気の中、顕正会を嫉視する法華講連合会委員長・平沢益吉から、四箇条の詰問状が、妙信講・指導教師の松本日仁住職を通して、小生に突きつけられた。この詰問は、宗務院・連合会連絡会議の席に松本住職を呼びつけてなされ、平沢の発言を阿部教学部長が筆記して手渡したものである。その詰問状はいま小生の手許にある。

このうち三ヶ条は取るに足らぬ言いがかりであったが、一ヶ条は重大であった。

それは、小生が正本堂を事の戒壇と認めぬことを詰り、返答を求めたものである。詰問状には

「今の正本堂は事の戒壇ではない。奉安殿が狭くなったので、広い処へ移すためだけのものである、と妙信講では指導している」

とあり、回答を迫っている。このとき平沢は「許しがたい。返答の次第では池田大作総講頭に伝え、妙信講を取り潰して見せる」と凄んだという。

この一事を見れば、「顕正会も正本堂の意義に賛同していた」などのたばかりは、消し飛ぶであろう。

このとき私は、この「詰問」に大聖人の厳たる御命令を感じた。

「法を壊る者を見て責めざる者は、仏法の中の怨なり」(滝泉寺申状)

「もし正法尽きんと欲すること有らん時、まさに是くの如く受持し擁護すべし」(立正安国論)

「むしろ身命を喪うとも教を匿さざれ」(撰時抄)

この御金言が耳朶を打った。もしこのまま放置すれば、昭和四十七年の正本堂落成の日に、御本仏の御遺命は完全に破壊されてしまうではないか。この重大事を見ながら知りながら、黙止すれば最大の不忠となる。――この思いが込み上げたとき、それまで心の片隅にあった「いつか猊下が誑惑を摧いてくれるであろう」の期待も、「本門戒壇という重大法義に口出しは恐れあり」との逡巡も、一時に霧消した。

「黙っていたら大聖人様に申しわけない。大聖人様のお叱りを受ける。たとえ一命に及ぶとも、妙信講が潰されようと、何の悔いがあろう」

ただこの一念で、昭和四十五年三月、「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」の一書を認め、細井管長および宗務役僧、さらに学会首脳にこれを送附したのである。

以来、連々の諫訴・呵責は今日まで三十五年。その間、宗門あげての悪口も、理不尽なる解散処分をも耐え忍んだ。これ偏えに、大聖人の御心に叶い奉らんの一念以外にはない。

かかる一筋の忠誠を貫く顕正会を、汝ごとき阿諛の売僧が仮初にも毀るは、まさに「糞犬が師子王をほへ、癡猿が帝釈を笑う」にも似ている。(引用終わり)

「試練と忍従の歴史」にも同様の趣旨が記されています。

当時、「正本堂が戒壇の大御本尊御安置の堂宇」なることと、「御遺命の戒壇」とする両義が併存したなかで、「細井管長がいずれ摧いてくださる」と信じ、また正本堂が戒壇の大御本尊を厳護し奉る大御宝蔵と理解し、宗門の一翼としてご供養に参加した。

しかし、その後、「正本堂の誑惑は隠れなき事態」となり、浅井先生は「納むべきは納め、そして諫むべきは徹底的に諫め」られたのであります。

正本堂の御供養に参加した理由はここに炳焉です。

「顕正会も正本堂の意義に賛同していた」との言辞が、いかに悪質なたばかりかよくわかります。