日蓮大聖人の御遺命とは(1)

御本仏・日蓮大聖人の御遺命については浅井先生が著された「基礎教学書 日蓮大聖人の仏法」や「冨士大石寺顕正会」の公式ホームページに掲載されておりますが、以下に引用させていただきます。

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御遺命とは何か

日蓮大聖人は、本門戒壇を建立して日本および全世界を仏国と化し、全人類を現当二世に救済することを究極の大願とあそばされた。

ただし、この本門戒壇は一国の総意に基づく国家的な建立であるから、日本一同に南無妙法蓮華経と唱え奉る広宣流布の暁でなければ実現できない。御在世には未だその時いたらず、よって未来国立戒壇に安置し奉るべき「本門戒壇の大御本尊」を二祖日興上人に付し、この大事を日興上人に御遺命されたのである。

されば本門戒壇の建立こそ御本仏日蓮大聖人の唯一の御遺命である。もしこれを忘れれば仏弟子ではなく、もしこれに背く者あれば魔の眷属である。

仏法と国家

大聖人の一代の御化導を拝見するに、立宗以来、母が赤子の口に乳を入れんとはげむ大慈悲を以て人々に「南無妙法蓮華経と唱えよ」と勧め給うと共に、立正安国論をはじめ十一通申状・一昨日御書・四十九院申状・滝泉寺申状・園城寺申状等と、一時の休みもなく、一代を貫き身命を賭して国主への諫暁をあそばされている。

このように大聖人の御化導が、個人への信仰の勧めにとどまらず、国主に対し国家次元での三大秘法受持を迫られているのは何ゆえであろうか。

それは、個人の幸福が国家と共にある。すなわち国家の興亡盛衰が全国民の幸・不幸に深く関っているからに他ならない。

ゆえに立正安国論には
「国を失い家を滅せば何れの所にか世を遁れん。汝須く一身の安堵を思わば、先ず四表の静謐を祈るべきものか」と。

もし他国の侵略によって国が亡び、内戦によって家を失ったならば、いずれのところにか生きのびる所があろう、よって我が身の安全を思うならばまず国家の安泰を願うべきである──と示されている。

同じく安国論に
「国に衰微なく土に破壊無くんば、身は是れ安全にして心は是れ禅定ならん」と。

国家・国土の安泰・静謐があってこそ、初めて個人の身の安全・心の安定がもたらされる――と仰せられる。

さらに蒙古使御書には
「一切の大事の中に、国の亡びるが第一の大事にて候なり」と。

国家の滅亡はすべての国民に想像を絶する悲惨をもたらす。ゆえにこれを「第一の大事」と仰せられる。まさに国家は、国民一人ひとりを細胞とする社会的な有機体、一つの生命体である。ゆえに国が亡べば、構成員たる国民一同にその悲惨がおよぶのである。

今日、ことさら国家の存在を軽視あるいは無視しようとする風潮がある。これは敗戦による自虐史観から生じたものであるが、国家の本質を見誤ってはならない。

およそ人間は国家を離れては生存し得ない。山中において一人で生活することはできない。集団生活をし、社会を作り、相互扶助することによって始めて生存することができる。「一切衆生は互いに相助くる恩重し」(十法界明因果抄)と。これが「一切衆生の恩」である。

そして、社会を作り集団生活をするには、集団内の秩序を持ち外敵から集団を防衛しなくてはならぬ。この機能を果たすのが公権力すなわち統治権力である。ここに国家が成立する。

政治学では国家の成立要素として領土・人民・主権の三つを挙げるが、この主権を仏法では「王法」という。大事なことは、この王法の在り方によって、国家の命運が決するということである。

もし王法が修羅界であれば、内には人民を虐げ外には他国を侵略する国となる。もし王法が衰微すれば、国内は秩序を失って内乱を誘発し外からは他国の侵略を招く。

ここに大聖人は、王法は仏法に冥ぜよ、とお教え下さるのである。

もし王法が仏界化すれば、国家権力は慈悲の働きとなり、内には国民を守って幸福をもたらし、外には他国をも利益する。このとき諸天はその国を守護するゆえに、国土には三災七難が消滅し、国は真の安泰を得る。これが仏国である。

では、どうしたらこの仏国が実現するのか。ここに本門戒壇建立の重大意義がある。具体的に言えば――

日本一同に南無妙法蓮華経と唱え奉る広宣流布のとき、仏法を守護し奉る旨の国家意志の公式表明を手続として、国立戒壇を建立して「本門戒壇の大御本尊」を安置し奉れば、日本は仏国となる。

まさしく本門戒壇の建立こそ、本門戒壇の大御本尊の妙用により、日本を仏国とする唯一の秘術なのである。