次に細井日達の言辞です。
「倩々惟みるに下種本仏の利生漸く閻浮を光被せん機運の洋溢する方今を迎へ得しは、是れ後五百歳中広宣流布の金言を体し、地湧の眷属たる自覚のもと打って一丸、克く折伏逆化に邁進する創価学会の出現に依るところと謂ふべきなり、夫れ創価学会会員の捨身弘法の熱誠たるや、宗門の古今に全くその類ひを絶せる熾烈さにして、その行業は正しく大聖人の御嘉納遊ばされるところにして、宗門緇素の等しく満腔の敬意を表さずんばあるべからざるところなり、若し聊爾たりとも、此の清浄無比にして護惜建立の赤誠に燃ゆる一大和合僧団創価学会に対し、実にもあれ不実にもあれ謬見を懐き謗言を恣にする者ありとせば、其籍、宗の内外にあるを問わず、全て是れ広布の浄業を阻礙する大僻見の人、罪を無間に開く者と謂うべし」(昭和38年7月15日・訓諭)
「今や池田先生は四菩薩の跡を継ぎ、折伏の大将として広宣流布の進軍をしております」(昭和39年1月号・大白蓮華)
「かかる時期に、池田先生は、世界の人々に謗法を選捨し正法の南無妙法蓮華経を選取せしむるため、進んで本選時抄講義を出版せられたことを、私は深く感謝するのであります。要するに、池田先生は、久遠元初本因妙の南無妙法蓮華経を、今の時に広宣流布せしめようとする念願のほか、なにもないのであります」(昭和39年11月1日・池田大作著「御書十大部講義」)
「池田先生の死身弘法の寸暇を、さらに止暇断眠して、この大講義をなせるは、実に在世の維摩居士の、今に出現せるかの感を深くしたのである」(昭和40年3月13日・池田大作の御書講義について)
「宗祖日蓮大聖人、一閻浮提第一の本門戒壇の大本尊を此の国に建立せられてより六百八十六年なり。而して妙法の唱え日本国乃至世界に満ち、誠に広宣流布の金言虚しからずと云うべし。茲に法華講総講頭池田大作、時に感じ、我が総本山に正本堂を建立供養せんことを発願す」(昭和40年9月12日・訓諭」)
「ただいまお聞きのとおり、誰も想像しなかったほどの多額の御供養をお受けいたしました。広宣流布達成のための、大折伏の大将である池田会長が、宗祖日蓮大聖人の『富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり』のご遺言にまかせ、戒壇の大御本尊様安置の正本堂建立を発願せられ、学会の皆さんに建立御供養を発願せられて、この立派なる成果となったのでございます」(昭和40年10月17日・学会本部幹部会)
「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」(昭和43年1月号・大白蓮華)
「わが日蓮正宗においては、広宣流布の暁に完成する戒壇に対して、かつて『国立戒壇』という名称を使っていたこともありました。しかし日蓮大聖人は世界の人々を救済するために『一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し』と仰せになっておられるのであって、決して大聖人の仏法を日本の国教にするなどと仰せられてはおりません。日本の国教でない仏法に『国立戒壇』などということはあり得ないし、そういう名称は不適当であったのであります。……今後、本宗ではそういう名称を使用しないことにいたします」(昭和45年5月3日・学会総会)
「今まさに、わが大石寺に正本堂が建立中であります。この正本堂が完成すれば、今、奉安殿に安置し奉る本門戒壇の大御本尊は、正本堂にご遷座申すのでありますから、その時は正本堂は本門事の戒壇であります」(昭和45年5月3日・学会総会)
「日達、この時に当って正本堂の意義につき宗の内外にこれを闡明(せんめい)し、もって後代の誠証(じょうしょう)となす。
正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。
即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」(昭和47年4月28日・訓諭)
「広宣流布への流溢の展開の上に霊山浄土に似たらん最勝の地、富士山天生ケ原即ち大石ケ原に戒壇建立があるべきでありましょう。故に、今回建立の正本堂こそ、今日における妙法広布の行者である大聖人の弟子檀那が建立せる、一期弘法抄の意味を含む本門事の戒壇であると申すべきであります。……『正本堂は一期弘法抄の意義を含む、現時に於ける事の戒壇である』と宣言する次第であります」(昭和47年5月26日)
「今後、この正本堂に於いて、永久にこの戒壇の御本尊様の御開扉をして、信徒皆様の祈願の大殿堂とすることに決定した次第でございます」(昭和47年10月11日・大御本尊遷座の大法要)
「この大御本尊を正本堂は永久に守護して奉る建築物である」(昭和48年8月)
「賞 本門事戒壇正本堂建立」(昭和48年8月・池田大作への賞与本尊の脇書)
「此の御本尊は正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇に準じて建立されたことを証明する本尊也」(昭和48年8月・池田大作への賞与本尊の裏書)
「池田先生は、日蓮正宗と、その総本山大石寺の外護を以って任じられている。依って、正本堂は池田先生の姿でもある。……大聖人は『阿仏房さながら宝塔、宝塔さながら阿仏房』と仰せになっている。此の言葉を借用敷衍すれば、『池田大作さながら正本堂、正本堂さながら池田大作』ともいえる。池田先生に二陣三陣の信徒は皆『さながら正本堂』でなければならないと思う。その覚悟が本門戒壇の大御本尊の守護を事行に修行することになる」(昭和48年10月12日・写真集「池田会長と正本堂」)
「日本国の広宣流布はいつかといえば、日本国の三分の一が入信したときこそ広宣流布したといえる。その時には、我が大石寺を、大聖人御遺命の富士山本門寺と改称することもあり得ると信ずる」(昭和49年11月の学会総会、大日蓮・昭和50年1月号)