「慰撫教導」というゴマカシ

前回に引用した池田大作・細井日達・阿部日顕の御遺命破壊の言辞を読むほどに、正本堂を御遺命の戒壇と位置づけようとする、主犯たる池田大作の御遺命違背は明らかです。

同時に、まるで犬が主に尾っぽを振るような、細井日達や阿部日顕ならびに宗門高僧の媚び諂いは浅ましい限りで、その醜さには憤りが込み上げます。

宗門高僧らは、御本仏・日蓮大聖人の御遺命を池田大作の金力・権力に心蕩かされ、やすやすと売り渡してしまったのです。

御本仏の一代三十年の御化導を水泡に帰するに等しい大罪を犯しながら、学会と宗門が仲違いを起こしたのち、信心のない宗門僧侶は反省をするどころか全ての罪を池田大作になすりつけ、自らは被害者を装う様は「卑怯」という他はありません。

そして、これら池田大作の御遺命破壊を助けた言動の数々を「慰撫教導」という言葉で正当化し、ゴマカすのです。

(「慰撫」=なだめておだやかにすること。なぐさめいたわること。「教導」=教え導くこと)

これが慰撫教導で済むのなら、犯罪者を助けるために、利益供与を受けて法を曲げた裁判官も「慰撫教導」でお咎めなしとなります。

仮にこのような裁判官がいたら、直ちに懲戒処分に付され、刑事責任を追及されるでしょう。当たり前の話です。

ところが宗門僧侶には、このような世間の常識すら通用しないようです。バカも休み休みにしろと言いたいです。

宗門が御遺命破壊に加担したことを、他ならぬ阿部日顕自身が告白しています。

今回はその言葉を列挙します。

少し長いですが、大事なことなので煩をいとわず引用します。

「名誉会長が色々な面で私を批判したり、宗門を軽視したりということが、最近、特に激しくなってきておるということですが、皆さんは聞いていて、『それが唐突として起こってきたということになるのだろうか』『その原因は何なのだろう』ということが、あまりはっきりしないと思うのです。どうしてこのようなことが起こってきたのかということであります。……それは、非常に大事な宗門の教義、信条の根本である三大秘法の意義、内容に関すること、それと正本堂との関係が一番根本になっておるような感じがいたしております」(平成3年1月6日・全国教師指導会)

「池田名誉会長は、昭和四十三年の正本堂着工大法要の時に『三大秘法抄』の文を引き、「この法華本門の戒壇たる正本堂」とはっきり言っております。すなわちこれは『三大秘法抄』の戒壇がそのまま正本堂であるということを言ったのであります」(平成3年1月6日・全国教師指導会)

「これは一月六日にも言ったことですが、どうも池田名誉会長は、随分前から、仏法を御自分の考えを中心として解釈し述べておりまして、それによって大きな問題が起こっておると思います。それは正本堂の意義についてであります」 「その当時は、私達もそのような空気の中に巻き込まれてしまって、たしかに私も藤本総監も、ズバリとは言っていないが、それに近いようなことを実際に言っており、『大日蓮』にきちんと残っている。今、それは大いに反省しております。しかし、その時は、そのような空気が宗門を巻き込んでいった。その一番元は、池田大作名誉会長が、大聖人の御遺命の達成であるという意味で、正本堂を『三大秘法抄』の戒壇であると指名したことであります」(平成3年1月10日・全国教師指導会)

「私が教学部長の時、昭和四十七年三月二十六日の総本山における指導会で、訓諭の基となる宗門公式見解を発表した内容を挙げて、それを今回の発言と比べて矛盾するものであり、自語相違と述べられております。
私としては、そのことは全て承知の上で教師指導会における発言をしたのです。なぜならば、宗祖大聖人の御遺命の戒壇の重要性を考えるとき、本当の戒壇の正義に立ち還ることが、仏子としてもっとも大切であると思うからです。
顧みれば、あの当時、正本堂を何とか御遺命の戒壇として意義づけようとする池田会長と学会大幹部の強力な働きかけや、妙信講の捨て身の抗議があり、その間にあって宗門においても、正本堂の意義がいろいろ考えられました。
そうした中で、三月二十六日の宗門公式見解を教学部長より発表する仕儀となりました。教学部長としての私は、その時その時を忠実にと思い、御奉公をしたつもりでありました。しかし、今顧みれば、あの時の「正本堂は広宣流布の時に『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇となる」という趣旨の教学部見解は、宗祖大聖人の御遺命たる本門戒壇の正義よりみれば、適当でなかったと思います。それが、日達上人の、「昭和四十年二月十六日の私が申しました言葉の意味とピタリと合っておるわけで、それを判り易く要約すれば、こうなるのでございます」 という御指南と一体のものとはいえ、その背景には、正本堂建立発願主を含む創価学会の強力な意義づけに関する主張があったことを、今にして思うものです」(平成3年3月9日・回答書)

「広布を推進した信徒中の一部の指導者が、いまだ『三大秘法抄』の御指南の事相に到達しないにもかかわらず、分々の広布相をもって広布の実証とし、御遺命の戒壇としての建物を建てたと執着することは、仏法の道理から見て深く反省すべきでありましょう。……時いまだ至らざるに、御遺命の戒壇を前もって建てておくという考えは、願望としては許されるでありましょうが、所詮、それは機情の見であり、……真義は、厳然たる御本仏大聖人の金文をもって決すべきであります。
総じて、正本堂が現在において、『三大秘法抄』の御遺命の戒壇そのものであると断ずることが間違いならば、未来においてそれが確実に御遺命の戒壇となると言い切ることも、また早計であります。……いまだその時が至らないにもかかわらず、直ちに「これなり」と断定し切ったことは、我見・私見であり誤りでありますから、これについて責任者は、おのずからはっきり訂正すべきであります。私がこう申すのも、ひとえに仏意・仏勅の御金言を重んじ奉るからであります」(平成3年4月6日・虫払法会)

「教学部長時代とはいえ、書いた二書のなかにはどうしても当時、創価学会が正本堂の意義付けに狂奔し、その関係者からの強力な要請もあって、本来の趣旨からすれば行き過ぎが何点かあったようにも、今となっては思うのです

「四十二年十一月、これは『載せるから何か書け』と言われたのです。それで高木伝道房、私、藤本栄道房、椎名法英房、大村寿顕房、菅野慈雲房等が書いているのですけれども、これが当時の空気に飲まれてしまっていて、だいたいそういう流れの上から発言をしてしまっているのてす。空気というものは恐ろしいものですが、あのころはそういうものが色々とあったのです」

「四十九年八月から十一月にかけて妙信講の処分という問題がありました。結局、道理から言っても国立戒壇は誤りですから、『国立戒壇論の誤りについて』のなかにおいて国立戒壇が間違いだと言ったことは正しかったと思っております。
ただ『王法』の解釈と、正本堂の建物についてのことでは書き過ぎがあったという感じもしておるのですけれども、しかし、これもその当時の流れのなかで彼らを慰撫教導するという意味では、あのように書いたことはやむをえなかったと思っておるのであります」

「昭和四十七年の『国立戒壇論の誤りについて』と五十一年の『本門事の戒壇の本義』は、先程から言っているように私が書いたけれども、そこにはたしかに、戒壇の建物は広布完成前に建ててよいとか、正本堂が広布時の戒壇の建物と想定するような、今から見れば言い過ぎやはみ出しがあるけれども、これはあくまで正本堂の意義を『三大秘法抄』の戒壇に作り上げようとした創価学会の背景によらざるをえなかったのです。つまり、あの二書は正本堂が出来る時と出来たあとだったが、浅井の色々な問題に対処することも含めておるわけで、強いて言えば全部、正本堂そのものに関してのことなのであります。そういうことですから、正本堂がなくなった現在、その意義について論ずることは、はっきり言って、全くの空論であると言ってよいと思います。
あのなかでは、王法や勅宣・御教書に対する解釈を述べるなかで、『建築許可証』というようにも書いてしまってある。これは当時の在り方において、学会からの具申的な勧誘もあり、私がそのように書いてしまったのです。けれども、今考えてみると、やはり今は、勅宣・御教書は、その現代的な拝し方としても、そういう軽々しいものとして考えるべきではなく、もっと深い背景的意義を拝すべきと思うのです」(平成16年8月26日・全国教師講習会)