5、その他の国立戒壇否定の僻論
「御書には国立戒壇の語はない」
池田大作はいう
「戸田先生もわれわれも、いちじ『国立戒壇建立』といってきました。しかしどこを捜しても、御書には『国立戒壇建立』ということばはないのです。大聖人様はちゃんと未来を考えていらっしゃったのです」(聖教40・9・22)
「国立戒壇ということばは、大聖人の御書には一つもありません。あくまでも、民衆の力によって、できあがる本門戒壇の建立が、大聖人の御遺命であります」(大白蓮華41年7月号)と。
幼稚な論理である。「国立戒壇」の用語が御書にないというのなら、「民衆立」の語はあるのか。また法華経の肝心・法体は一念三千である。しかし「一念三千」の語は法華経のどこにもない。同じく「久遠実成」「二乗作仏」のことばも法華経にはない。これらの言葉は、ことごとく法華経の理に基いて後に付された名称である。
いま「国立戒壇」も同じ。三大秘法抄の「王法仏法に冥じ……勅宣並びに御教書を申し下して建立すべき戒壇」を約言すれば、まさしく「国立戒壇」ではないか。ゆえに日蓮正宗の歴代先師上人も、また学会も、この名称を用いてきたのではなかったのか。
ただしこの「国立戒壇」とは、国費によって立てる戒壇の意ではない。広宣流布の暁の事の戒壇は、全国民の燃えるような赤誠の供養によるべきである。また国立戒壇とは、国家権力による強制をも意味しない。信仰は強制によってなし得るものではない。あくまで一対一の折伏により全国民が三大秘法を受持する時が広宣流布であり、その時が戒壇建立の時だからである。
では、国立戒壇の「国立」たるゆえんはどこにあるのかといえば、実に「勅宣並びに御教書」すなわち国家意志の表明にある。かくて始めて仏国実現が叶うのである。
この国立戒壇の本質を知れば、かりに「国立戒壇」について世間の誤解があったとしても、その誤解をこそ解くべきであるのに、いまになって「御書にない」などと云って国立戒壇を棄てるのは、大聖人に背くだけではない、世間の物笑いにもなろう。
また「民衆立」であるが、もしこの「民衆立」が国民の総意による建立を意味するのならば、国民の総意は即国家意志となるから、往いては国立戒壇と同意となる。
ただし学会・宗門でいう「民衆立」とは、実は「学会立」にすぎない。だからこれをごまかすためには、もったいぶったこじつけがどうしても必要になる。次の細井管長の講演は如実にこれを物語る。
「正本堂は、池田会長の発願と、全信徒八百万の純信なる日蓮正宗の信徒の浄財による。いわば八百万民衆の建立であります。〝八百万〟という数は、実に奇しき数であります。〝八百万〟とは昔の日本古来の読み方によりますと『やおよろず』であります。『やおよろず』とは〝無数〟を意味するのであります。今われわれ人間は、十界互具・一念三千の法門からすれば、一面、天界の神々であるといえるし、また仏界の仏でもあるといえるのであります。八百万民衆の建立による正本堂は、それ故、古来の読み方に従えば『やおよろず』の神々・諸天善神の建立ともいえるし、また十方三世の無数の仏の建立ともいえるのであります。まことに正本堂こそ意義深い建物であると信ずるのでございます」(大日蓮45年6月号)と。
〝八百万〟を「無数」といい、また「諸天善神」といい、また「仏界の仏」という。何をいっているのかさっぱりわからないのは、誑惑のゆえである。
誑惑のむなしいことを報恩抄に云く
「糞を集めて栴檀となせども、焼く時は但だ糞の香なり。大妄語を集めて仏と号すとも、但だ無間大城なり。尼けんが塔は数年が間利生広大なりしかども、馬鳴菩薩の礼をうけて忽ちにくづれぬ」と。
「国教でないから国立戒壇はない」
細井管長はいう
「(日蓮大聖人は)決して大聖人の仏法を日本の国教にするなどとは仰せられておりません。日本の国教でない仏法に『国立戒壇』などということはありえない」(大日蓮45年6月号)
阿部教学部長もいう
「大聖人の仏法に、国教ということは全くありえないし、かえって正しい弘通が阻害されよう。その国教ということが全く排せられるべきものであるから、国立戒壇ということも当然必要がないのである」(悪書Ⅱ)と。
これは逆さまの論理である。〝国教にすべきでないから国立戒壇はない〟ではない、〝国教にすべきであるから国立戒壇が必要〟なのである。
「国教」の定義もいろいろあるが、もし「国教」を〝国家が根本の指導原理として崇尊する教法〟と定義するならば、三大秘法こそ日本の国教たるべき教法であり、大聖人の御念願もここにあられる。
御付嘱状の「国主此の法を立てらるれば」、四十九院申状の「国主此の法を用いて」とは、まさしく〝国教にすべし〟との御意ではないか。また三秘抄の、王法が冥ずる「仏法」、王臣一同が受持する「本門の三大秘密の法」、勅宣・御教書を以て擁護すべき「本門戒壇の大御本尊」とは、まさしく国教そのものではないか。
そして、国家が根本の指導原理として三大秘法を受持擁護するその具体的発動が、国立戒壇の建立である。ゆえに、国教だからこそ国立戒壇が必要なのである。
現憲法に気兼ねして「国教」を禁句のごとく扱う必要はない。第六十五世日淳上人は堂々と
「真に国家の現状を憂うる者は、其の根本たる仏法の正邪を認識決裁して、正法による国教樹立こそ必要とすべきであります」(大日蓮32年1月号)と御指南されているではないか。
細井管長も阿部教学部長も、ただ池田に追従しているだけなのだ。池田は云う
「戸田前会長も私達も……国立戒壇という言葉を用いてきました。しかし、その言葉が、そのまま国教化を目指すものであるという誤解を生じてはならないので、戸田前会長も私達も、明確に、国立戒壇イコール国教化ということは、最初から否定してまいりました」(大白蓮華45年6月号)と。
だが戸田前会長は次のように云っている。
「日蓮正宗を国教として、天皇も帰依して戒壇を建立するようになった場合、戒壇の御本尊さまを、どこの宗派がだせるか。大聖人さまご遺命に、天皇がかならず御本尊を奉持するときの、シシン殿にたてまつる御本尊をしたためられてある。シシン殿御本尊さまを、どこの宗派が天皇にさしあげられるか」(大白蓮華35年1月号)
池田の御都合主義は一目瞭然である。