「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」(7)

4、「事の戒壇」の定義変更による誑惑

事の戒壇とは、広布の暁に建てられる御遺命の戒壇である。しかるに池田大作はこの事の戒壇を「正本堂である」と偽った。そこで顕正会は「正本堂は事の戒壇ではない」と第一回諫暁書で破折した。すると細井管長と阿部教学部長は「戒壇の御本尊のまします所は、いつでもどこでも事の戒壇である」と定義を変更して、だから「正本堂は事の戒壇といえる」と云い出した。

いかにも見えすいたたばかりであるが、破折しておく。この定義変更の欺瞞は二つある。

その一つは、〝正本堂が御遺命の戒壇か否か〟ということと、〝戒壇の大御本尊のまします所が広布以前にも事の戒壇といえるか否か〟ということとは、全く無関係・別次元の問題なのである。しかるに「事の戒壇」という名称を共通せしむることにより、顕正会の破折を紛らわせ、池田の誑惑があたかも通用するかのように錯覚せしめているのが、欺瞞の第一である。

第二は、本宗の伝統法義の上からは、広布以前に戒壇の大御本尊まします所を「事の戒壇」とは絶対に云えないのである。

まず本宗伝統の法義を示そう。本門戒壇における事と義とは、事とは事相(事実の姿)の 意、義とは義理・道理の意である。すなわち、三大秘法抄に定められた条件が整った時に事実の姿として建立される戒壇を「事の戒壇」といい、それ以前に本門戒壇の大御本尊のまします所を「義の戒壇」と申し上げるのである。

その文証を引く。

日寛上人は法華取要抄文段に、まず義の戒壇を説明されて

「義理の戒壇とは、本門の本尊所住の処、即ちこれ義理・事の戒壇に当るなり……故に当山は本門戒壇の霊地なり。またまた当に知るべし、広宣流布の時至れば、一閻浮提の山寺等、皆嫡々書写の本尊を安置す。その処は皆これ義理の戒壇なり」と。

次に事の戒壇を釈されて

「正しく事の戒壇とは、秘法抄に云く『王法仏法に冥じ……』等云々」と御指南されている。

また日亨上人は

「この戒壇について、事相にあらわるる戒壇堂と、義理の上で戒壇とも思えるの二つがある。事相の堂は将来一天広布の時に勅命で富士山下に建ち、上は皇帝より下は万民にいたるまで授戒すべき所であるが、それまでは本山の戒壇本尊安置の宝蔵がまずその義に当るのである。末寺の道場も信徒の仏間も、軽くは各々その義をもっていると云える」(正宗綱要)

また日淳上人は

「御文(三大秘法抄・一期弘法付嘱書)に、王法と仏法と冥合して国主が此の法を御用いの時は、此の戒壇が建立せられる、それを『事の戒法と申す』と仰せられるのでありますから、その時の戒壇を事の戒壇と申し上げるのであります。従って、それ以前は御本尊のましますところは義理の上の戒壇と申し上げるべきであります。仍って此のところを義の戒壇と申し上げるのであります」(日蓮大聖人の教義)と。

文証・赫々明々、一点の疑問の余地もない。これが本宗伝統の「事」と「義」の立てわけである。

学会においてもこの定義は同じである。

「戒壇とは、広宣流布の暁に本門戒壇の大御本尊を正式に御安置申し上げる本門の戒壇、これを事の戒壇という。それまでは大御本尊の住するところが義の戒壇である」(折伏教典・三五版)

池田大作でさえ

「日蓮大聖人の三大秘法の仏法においては、本門の本尊まします所が義・戒壇にあたる。……ここに日蓮大聖人御遺命の戒壇建立とは事の戒壇であり、『三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法』である」と。

定義は正しい、ただしこの定義を以て正本堂を事の戒壇と偽るから「御遺命違背」というのである。

細井管長も曽ては正しい定義を用いていた。

「事の戒壇とは、富士山に戒壇の本尊を安置する本門寺の戒壇を建立することでございます。勿論この戒壇は広宣流布の時の国立であります」(大日蓮36年5月号)

「広宣流布を待ってはじめて本門寺を建立、戒壇の大御本尊を安置し奉って事の戒壇建立ということになるのでございます」(大日蓮34年9月号)と。

しかるに昭和四十五年の顕正会の諫暁以降、突如としてこの定義が変更される。すなわち細井管長は

「この(戒壇の)御本尊在すところは事の戒壇でございます。だからその御本尊が、たとえ御宝蔵にあっても、あるいは唯今奉安殿に安置し奉ってあっても、あるいは今正に出来んとする正本堂に安置し奉っても、その御本尊在すところは何処・何方でも、そのところは即ち事の戒壇であります」(45・4・27・教師補任式)と。

前言との自語相違はどうなる。

阿部教学部長も云う

「戒壇の本尊のおわします所、直ちに事の戒壇である」(悪書Ⅱ)と。

だが日寛上人は

「未だ時至らざる故に、直ちに事の戒壇これ無し」(寿量品談義)

と御指南下さる。まるで正反対ではないか。これまさに、細井管長・阿部教学部長が池田の誑惑を扶けるため、勝手に日蓮正宗の伝統法義を改変して「義」を「事」と偽ったものだ。これを「己義を構える」というのである。

細井管長・阿部教学部長が定義改変を正当化するために挙げた文証はただ二つである。

一つは日開上人の御宝蔵説法本。これを細井管長はわざと日開上人の御名を隠したうえで「御相伝」と称し、次のように引用する。

「其の本堂(原本は戒壇堂)に安置し奉る大御本尊いま眼前に当山に在すことなれば、此の所即ち是れ本門事の戒壇、真の霊山・事の寂光土」(大日蓮50年9月号)と。

原本の「戒壇堂」を「本堂」と改ざんするのも無慚であるが、許されないのは文意の歪曲である。

日開上人は、戒壇の大御本尊まします所を直ちに「事の戒壇」と仰せられたのではない。第一章ですでに述べたように、この前文には

「事の広宣流布の時、勅宣・御教書を賜わり本門戒壇建立の勝地は当国富士山なる事疑いなし」

とある。すなわち広宣流布の暁に国立の事の戒壇が建てられることを大前提とし、その事の戒壇に安置し奉るべき戒壇の大御本尊いま眼前にましますゆえに、たとえ未だ事の戒壇は建てられていなくとも、その功徳においては事の戒壇に詣でるのと全く同じであるということを「此の所即ち是れ本門事の戒壇」と仰せられたのである。これが「義理・事の戒壇」すなわち義の戒壇の意である。

この御意は、三十七世日ぽう上人の御宝蔵説法の

「未だ時至らざれば、直ちに事の戒壇はなけれども、此の戒壇の御本尊ましますことなれば、此の処即ち本門戒壇の霊場にして、真の霊山・事の寂光土と云うものなり」と同一轍である。

しかるに細井管長は、日開上人の御宝蔵説法の前文をわざと隠す、すなわち御遺命の戒壇を無視した上で、戒壇の大御本尊所住の処を直ちに「事の戒壇」といった。これ明らかに文意の歪曲である。

もう一つの文証は、「最近出てきた」という日相上人の文書である。この文書について細井管長は

「日寛上人の御説法を日相上人がお書きになった。これは間違いないんです」

という。また阿部教学部長も、この日相上人文書が日寛上人の「密意」を伝えるものであるとして

「日相上人の聞書、大弐阿闍梨(日寛上人大学頭時代の呼び名)講の三秘六秘中の戒壇の文にも書かれている」(悪書Ⅱ)と云っている。

これではまるで、日相上人が日寛上人の御説法の場に在って書いたように取れるではないか。「聞書」とは聞きながら書く速記録である。日相上人は第四十三世の貫首にして、その御出家は日寛上人の滅後四十四年である。その日相上人が、どうして日寛上人の御説法を聴聞できよう。たばかりもいいかげんにせよ。

また阿部教学部長は、この文書が日寛上人の「密意」を伝えるごとくいうが、あの用意周到の日寛上人が、どうしてこのような形で大事の御法門を後世にお伝えになるであろうか。寛尊の精美を極めた大事の御法門は、六巻抄および重要御書の文段に尽き、それ以外には絶対にない。ことに畢生の大著といわれる六巻抄に至っては、御遷化の前年に再治を加えられ、その中で「敢えて未治の本を留むることなかれ」とまで念記されている。その上人が、このような頼りないメモでどうして大事の法義を密伝されようか。

またもしそれほど重大な文書なら、なぜ今まで誰もその存在を知らず、昭和五十年になって始めて発見されたのであろうか。

この文書がもし日相上人の直筆だとしても、恐らく日相上人が日寛上人の大学頭時代の御説法本を拝見し、その要旨をメモされたものに過ぎないであろう。「密意」などとたばかってはいけない。

さて、鬼の首でも取ったように披露した日相上人文書であるが、その内容を見れば

.

とあるだけである。この意は、日寛上人が諸々に示し給うた御意と何ら矛盾するものではない。すなわち嫡々書写の本尊安置の処を「理の戒壇」とし、広布の暁・富士山に建てられる戒壇の大御本尊御在所の戒壇を「事の戒壇」と示されただけのことである。

このように、嫡々書写の本尊の所住と国立戒壇とを直ちに相対して理と事に立て分ける捌きは、日寛上人の報恩抄文段にも見られる。すなわち

「本門の戒壇に事あり理あり。理は謂く道理なり、また義の戒壇と名づく。謂く、戒壇の本尊を書写してこれを掛け奉る処の山々・寺々・家々は皆これ道理の戒壇なり。次に事の戒壇とは、即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり」と。

日相上人の文意は、この報恩抄文段と同一轍である。故意に文意を歪曲されては日相上人こそ迷惑なさろう。

だいいち、このメモの初めにも「三大秘法とは開すれば六、合すれば三なり」とある。もし戒壇の御本尊の所住が広布以前にも事の戒壇であるとするならば、三大秘法抄・御付嘱状の御遺命は不要となり、日寛上人の御法門の枢要たる三秘六秘も成立しなくなるではないか。

しかしなお阿部教学部長は〝猛々し〟く云う。

「(日寛上人の著述中に)本門戒壇本尊との名称を挙げて、そのおわしますところを義の戒壇と説かせられる文は一か処も存しない。いな、むしろ本門戒壇の本尊の処、義理の戒壇でないことを決し給うている」(悪書Ⅰ)

さらに云く

「本門戒壇の本尊所住の処が、理の戒壇とか義の戒壇とおっしゃってる所は一ヶ所もないと思うんです。寛師のあの尨大の著書の中で、おそらく一ヶ所でもあったら教えていただきたい。まず絶対ないと私は思うんです」(大日蓮49年8月号)と。

では、御要望にしたがって明文を挙げよう。願くば守文の闇者たらずして理を貴ぶ明者たらんことを――。

まず法華取要抄文段に云く

「義理の戒壇とは、本門の本尊所住の処は即ち是れ義理・事の戒壇に当るなり。経に云く『当に知るべし、是の処は即ち是れ道場』とは是れなり。天台云く『仏其の中に住す、即ち是れ塔の義』等云々。故に当山は本門戒壇の霊地なり」と。

「当山」とは、本門戒壇の大御本尊まします大石寺のことである。この大石寺を指して「義理の戒壇」と明らかに仰せられているではないか。

また寿量品談義に云く

「未だ時至らざる故に直ちに事の戒壇之れ無しと雖も、すでに本門戒壇の御本尊在す上は、其の住処は即ち戒壇なり」と。

「事の戒壇は未だ無し」とした上で「其の住処は即ち戒壇」と仰せられるのは〝義理 (道理)において事の戒壇〟という意である。なにゆえ義理・事の戒壇に当るのかといえば「本門戒壇の御本尊在す上は」とある。文意全く取要抄文段と同じである。

また依義判文抄に云く

「南条抄に云く『教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し、日蓮が肉団の胸中に秘し隠し持てり、……斯かる不思議なる法華経の行者の住処なれば、争か霊山浄土に劣るべき……』云々。応に知るべし、『教主釈尊の一大事の秘法』とは、即ち是れ本門の本尊なり。『日蓮が肉団の胸中』とは、即ち本尊所住の処これ義の戒壇なり。……『斯かる不思議なる法華経の行者の住処』等とは、所修は即ち本門の題目なり、住処と云うとは題目修行の処、即ち義の戒壇なり」と。

「教主釈尊の一大事の秘法」とは、本門戒壇の大御本尊の御事である。ゆえに文底秘沈抄には

「『教主釈尊の一大事の秘法』とは、結要付嘱の正体・蓮祖出世の本懐・三大秘法の随一・本門の本尊の御事なり。是れ則ち釈尊塵点劫来心中深秘の大法の故に『一大事』と云うなり。然るに三大秘法随一の本門戒壇の本尊は今富士山の下に在り」と。されば「日蓮が肉団の胸中」とは本門戒壇の大御本尊所住の処である。日寛上人はこの処を「これ義の戒壇なり」と明確に仰せられているではないか。

また「斯かる不思議なる法華経の行者の住処」をまた「義の戒壇」とされている。「法華経の行者」とは即日蓮大聖人、そして日蓮大聖人の御当体は即本門戒壇の大御本尊、その「住処」をまた「義の戒壇」と仰せられているではないか。

以上、明文・白義あたかも天日のごとし。阿部教学部長、もっていかんとなす。