第四章 謗法与同を破す
大聖人は謗法与同を厳しく誡め給うて云く
「法華経の敵を見ながら置いて責めずんば、師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし。乃至、何に法華経を信じ給うとも、謗法あらば必ず地獄にをつべし」(曽谷抄)と。
しかるに汝は、戒壇の大御本尊の敵たる身延の謗法僧を幾たびも大石寺に招いている。その動機は保身にある。細井管長と同じく、汝も御遺命違背の罰により池田と不和になり抗争に陥った。池田はあらゆる手段を使って汝を猊座から引きずり降さんとした。ここに不安を感じた汝は、身延派とも手を結び、反学会共闘を策したのである。だが、この謗法与同について、汝は嘘を重ねて言い逃れんとしている。
身延派布教師会一行を招く
まず身延派布教師会一行を招いた件――
平成六年十一月五日に、身延山久遠寺・志摩坊住職にして山梨県布教師会長である佐藤順映以下、八人の身延派布教師が招かれているが、この際、大石寺内事部理事の小川只道が一行を懇切に案内したうえ、佐藤順映に礼状まで送っている。
ところが汝は次のような言い逃れをする。
「小川理事が日蓮宗(身延派)の僧侶を案内した経緯はなく、内事部職員が案内したのである」と。
何という姑息な言い逃れか。誰が案内したのかが問題なのではない。身延の謗法僧を招いたかどうかこそが問題なのである。しかるに汝はこの事実は認めたうえで、〝案内人が違う〟などと、はぐらかしている。もし仮に「内事部職員」だとしても、上司の指示なくして一職員が案内をするわけがない。ではその上司は誰なのか。内事部理事の小川只道以外にないではないか。またその小川に指示したのは汝以外にないのだ。
しかし「内事部職員」というのも苦しまぎれの嘘である。小川只道の礼状を受け取った佐藤順映は次のように記している。
「懇切なる案内をしてくれた教師から、ほどなく一通の礼状が届いた」(大石寺研修参拝記)と。
これを見れば、「礼状」を出した小川が「案内をしてくれた教師」であることは紛れもない。
礼状の内容についても汝は嘘をつく。
「それは礼状でも何でもない。謝礼として届けられたものを断るためだったのである」と。
しかし佐藤順映は「礼状」と称して、その内容を次のごとく紹介している。
「みなさまの温かなお心に触れ、外はめっきり寒くなっていたにもかかわらず、温かな気持ちで御案内申し上げることができましたことを感謝しております」(同参拝記)
なんと小川は身延の謗法僧どもに、「温かな気持ちで御案内申し上げることができた」といって、感謝しているのだ。まさに礼状ではないか。もしそうではないと言うのなら、「礼状」の全文を公開してみよ。
身延派高僧・田中日淳一行を招く
次に平成七年六月六日には、身延派管長に就任する直前の田中日淳およびその一行が招かれているが、このとき汝は、能化の高野日海に命じ、蓮葉庵において饗応せしめている。
この件についても、返書ではこう言い逃れる。
「日蓮宗の僧侶の中には、高野尊能化の大学の同窓生が居たのである。そこで特に高野尊能化が見学者に対応され、蓮葉庵にてお茶を出したという程度のことである」
高野の出身校は身延系の立正大学であるが、同校で田中日淳と同窓生であったから接待役を務めたのだという。
これが言いわけになるか。汝には
「法華経の敵を見ながら置いて責めずんば、師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし」(曽谷抄)
との御本仏の厳誡、また日興上人の
「謗法と同座すべからず、与同罪を恐るべき事」
の御遺誡が恐ろしくないのか。
まもなく身延派管長に就任するという謗法の高僧を、あろうことか本宗の能化であり参議会議長の要職にある者が、袈裟衣を着けた正装で出迎えた上、総門から広布坊・三門・大客殿・御影堂、さらに正本堂・五重塔までくまなく案内し、そのあげく蓮葉庵において饗応しているのである。
「お茶を出したという程度」かどうかが問題なのではない。なぜ戒壇の大御本尊の敵を見ながらこれを責めないのか。責めるどころか、招き同座するとは何ごとか。その謗法与同こそが問題なのである。
大聖人の仰せのごとくんば、まさしく「師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし」そのものではないか。
山崎正友の大謗法
前述の身延僧らの大石寺参拝を、蔭でお膳立てしたのが山崎正友である。
山崎は学会の顧問弁護士在任中、当時総監代行であった汝と心を合わせて顕正会の解散処分を実行した当事者でもあったが、ほどなく学会を恐喝して実刑判決を受けた男である。汝は学会との抗争にこの男を利用しようと誘い、側近として対学会の謀略活動に従事させた。
かくて山崎は、汝から身延との仲介役を任され、平成六年ごろから積極的に身延派と接触し、各地の同派集会に出席しては、反学会運動を呼びかけたのである。すなわち
平成六年十一月二十四日には身延派山梨県連合布教会に講師として出席し、「今こそ日蓮宗から論争を提起して頂きたい」と煽動している。
次いで同年十二月六日には同派京浜教区教化会議で講演、その中であろうことか
「『板本尊偽作論』もその後の掘り下げがありません。これから本腰を入れて取り組んでほしい」
と、身延僧に戒壇の大御本尊への攻撃を嗾けたのである。
さらに平成九年九月十六日には久遠寺内の身延山大学で講演し、その夜、下部温泉で身延僧の歓待を受けている。
山崎のこのような画策により、一連の身延僧大石寺参拝が実現されたのであるが、汝はこの山崎の裏工作を隠して、ぬけぬけと次のようにたばかる。
「身延派の僧侶に大石寺見学を許可したのは古来の慣例通り対応したまでであり、山崎氏の講演とは全く無関係である」と。
身延謗法僧の大石寺参拝を許したのが「古来の慣例」とは何ごとか。富士大石寺は日興上人の
「檀那の社参物詣でを禁ずべし。何に況んや其の器にして、一見と称して謗法を致せる悪鬼乱入の寺社に詣づべけんや。返す返すも口惜しき次第なり。是れ全く己義に非ず、経文御抄等に任す云々」
の御遺誡を堅く守って来た唯一の正系門家である。信徒の社参物詣ですら禁じて来たこの正系門家が、どうして謗法僧などの参拝を許そうか。「古来の慣例」などと嘘をついてはいけない。
だからこそ、公式参拝を許された佐藤順映が驚いたのである。その「参拝記」には
「時の推移とは云え、過去頑迷なまでに他宗には門戸を開かなかった大石寺が、堂内外の案内に応じたという変化を我々は機敏にとらえ、柔軟な姿勢に最大限の評価を下し、更に日蓮門下の一員と云う連帯感の醸成に陰に陽に働きかける絶好の機と思う」
とある。佐藤ですら「過去頑迷なまでに他宗に門戸を開かなかった大石寺」といっているではないか。これが大石寺の清浄な伝統だったのである。しかるに汝の堕落は、身延の謗法僧にまで「連帯感」を懐かせたのだ。
さらに汝が最も強く否定しているのが、山崎が京浜教区教化会議で述べた「『板本尊偽作論』もその後の掘り下げがありません。これから本腰を入れて取り組んでほしい」の発言である。
汝は山崎本人に確認したとして、次のごとく釈明する。
「山崎氏は当日、教義的見解を交えないで、学会がいかに反社会的であるかについて講演を行う約束になっていた。ところが講演の後に、『板本尊偽作論』等について質問があったので、山崎氏は『〔板本尊偽作論〕は、日蓮正宗からさんざんに破折されたばかりか、名誉毀損でも訴えられて安永弁哲が破れ、以来、日蓮宗においてもタブー視されています。そのことに触れた上で、私はなぜ名誉毀損となったのか、なぜ日蓮正宗側の破折でぼろぼろにされたのか、そのことをあらためて、きちんと掘り下げて研究するべきだ、と苦言を呈したのです』『宗旨の根本に関わる御本尊の問題について、浅はかな議論をふっかけて返り討ちに遭いながら、それを何とも思わず放置していることに対して、宗教者として怠慢ではないかと、指摘をしたのです』『あくまでも私の信ずる法義までも述べることは、場が違いますので、彼らが真の求道者ではないことだけを、彼らにも判るように指摘するに止めました。しかし、むろん真の求道者として、道を求めれば、必ず真実の大御本尊に行き着く、という確信を心に持って、話したつもりであります』との存念、表現をもって日蓮宗の謗法を指摘したのである」と。
これは真っ赤な嘘である。当日の山崎講演を大きく報じた身延派機関紙「日蓮宗新聞」(平成7・3・20付)を見れば、欺瞞は明白となる。
この日の講演でまず山崎は、「反創価学会派が一つにまとまって〝被害者の会〟を結成することになった」と、反学会運動の高まりを宣伝した上で
「日蓮宗(身延派)の皆さんに期待したいことは、教義の上で創価学会が主張していることに対して論争を提起して欲しいということです」
と、教義論争をけしかけている。そして引き続き行われた質疑応答において、問題の発言をしているのである。「日蓮宗新聞」に掲載されたその全文を引こう。
質問 日蓮宗と創価学会が法論をした北海道の小樽問答についてどうお考えでしょうか。
答 小樽問答は創価学会が勝っています。日蓮宗は油断していたと思います。在家に僧侶が負けるはずはないと思っていたのではないでしょうか。思い込みでは戦えない。もう少しキチッと対応されれば良かったのでしょう。当時の日蓮宗のまとまりのなさもあったと思います。会場の情況、司会を相手にさせたことも失敗です。この問題について、その後も先訓として生かすべきです、臭い物に蓋ではいけません。「板本尊偽作論」もその後の掘り下げがありません。これから本腰を入れて取り組んでほしいと思います。創価学会を解散させるためにお互いに頑張りましょう。(拍手)
これを読めば、嘘がよくわかろう。汝はまず質問内容をごまかしている。質問は「小樽問答」についてであって、安永弁哲の「板本尊偽作論」についてではない。
山崎は「小樽問答」について得々として身延派に油断があった等の敗因を挙げたのち
「『板本尊偽作論』もその後の掘り下げがありません。これから本腰を入れて取り組んでほしいと思います。創価学会を解散させるためにお互いに頑張りましょう。(拍手)」
と述べているのである。まさしく〝安永弁哲の「板本尊偽作論」をさらに発展させ、戒壇の大御本尊を攻撃せよ〟と嗾けているのだ。だから身延僧の「拍手」を受けているのではないか。
また「彼らが真の求道者ではないことだけを、彼らにも判るように指摘した」と山崎が述べたとのことだが、笑わせてはいけない。
山崎はこの講演の翌平成七年の六月六日、大石寺で汝と会って謀議を巡らせたのち、同月二十四日には「国際正法協会」なる邪教の講演会に出席し
「私は教団組織にとらわれず、自由な立場で活動している。日蓮正宗に対しても同様。正法協会に入会はしていない。ただし園頭先生は師匠で、私は弟子だ」と発言しているのだ。
この一事を見てわかるように、山崎には一分の信心もない。そのうえ生まれついての虚言癖がある。このことは汝も骨身にしみて知っているはずだ。昭和六十年三月の非教師指導会では、汝自身こう述べているではないか。
「山崎正友の行ったすべての考え方なり、その行為・行動というものは、仏様の眼から見るならば絶対に許されるべきでない、もっと大きな罪が――地獄へ何回堕ちても足りないほどの罪が存するのであります。(中略)私は登座以来、特に昭和五十四年の九月に、山崎正友が実にインチキ極まる悪辣な策略家であるということを見抜いて『あなたは大嘘つきである』ということをはっきりと言いました」(大日蓮 昭和60・5月号)
ところが汝は池田との抗争に陥るや、この「大嘘つき」に対し、「あの時はウソツキと言って悪かった」と詫び、身延派との仲介までさせたのである。
そして断じて許しがたいことは、「戒壇の大御本尊を攻撃せよ」と身延の邪僧に嗾けた大謗法者を、今もなお側近として重く用いていることである。この事実は、汝もまた戒壇の大御本尊に対し奉り、全く信のないことを物語って余りある――。
以上、汝が犯した三大謗法およびその反論、ここにことごとく破折し畢った。