「最後に申すべき事」(4)

第三章 「戒壇の大御本尊」に対し奉る誹謗を破す

あるべからざるこの大謗法がなぜに起きたのか。――その動機を一言でいえば、栄達の道が閉されたと思い込んだ汝の憤懣である。
 当時、細井管長は池田大作との不和に身心を労していた。このとき汝は教学部長の要職にありながら、池田に内通していた。これを知った細井管長は憤って汝を疎外し、いわゆる反学会活動家僧侶(後の正信会)を多数身辺に集めて事に当らせた。このため宗務院は事実上機能停止に陥った。この反学会活動家僧侶というのは細井管長の弟子を中心とした若手僧侶で、この中には「次期法主」と目されるような有力僧侶もいた。
ここに出世の芽がなくなったと思い込んだ汝の憤懣が、細井管長への批判だけに止どまらず、恐れ多くも戒壇の大御本尊への八つ当りとなって現われたのである。
信心うすく名利の強い者は、我が身が不遇に陥れば反逆の心を懐く。熱原の大法難のときの三位房、また幕末の久遠院日騰等はその先例である。

一、「偽物」と断じたのは阿部信雄その人

汝は、昭和五十三年二月七日、腹心の参謀・河辺慈篤と帝国ホテルで会い、その二日後に総本山で開かれることになっていた「時事懇談会」について情報交換をした。
この時事懇談会とは、総本山に反学会活動家僧侶が二百名ほど結集し、学会と手を切るかどうかについて討論するという、容易ならざる集会であった。この緊迫した状況下で、河辺との会談が持たれたわけである。
 このとき汝は、反学会僧侶を偏重して宗務院を疎外している細井管長への憤りを吐露すると共に、あろうことか、戒壇の大御本尊に対し奉り八つ当たり的な大それた誹謗をしたのである。
余りのことに仰天した河辺は、汝の発言を記録した。これがいわゆる「河辺メモ」(昭和五十三年二月七日付)である。
メモにはこうある。

S53・2・7、A(阿部)面談 帝国H(ホテル)
一、戒旦之御本尊之件
戒壇の御本尊のは偽物である。
(以下、荒唐無稽の作り話を並べてその理由を説明しているが、口にするさえ恐れ多く、穢らわしいので、ここには略す)
一、G(猊下)は話にならない。人材登用、秩序回復等全て今後の宗門の事ではGでは不可能だ。
一、Gは学会と手を切っても又二三年したら元に戻るだらうと云う安易な考へを持っている。
〈( )内は筆者 注〉

汝は恐れ多くも――
御本仏大聖人の出世の御本懐、全人類成仏の大法、唯授一人血脈付嘱の法体、そして二祖上人が「日興が身に宛て給わる所の弘安二年の大御本尊」と仰せられ、日寛上人が「就中 弘安二年の本門戒壇の御本尊は究竟の中の究竟、本懐の中の本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり、況んや一閻浮提総体の本尊なる故なり」と言い置かれた、最極無上・尊無過上の戒壇の大御本尊を、あろうことか「偽物」と断じたのである。

この「河辺メモ」が流出したのが、二十一年後の平成十一年七月七日。
二人だけの密談であれば、よもや外部に洩れることはないと思って語ったことが、白日に晒されたのである。驚愕狼狽した汝は二日後の九日、宗務院から通達を発せしめた。この院達は、事実を全面否定する内容かと思われたが、そうではなかった。汝は「河辺メモ」の存在と面談の事実を認めたのである。ただ発言内容についてだけ
「当時は外部からの戒壇の大御本尊に対する疑難もあり、それらの疑難について、教学部長として河辺師に説明したもの」として訂正せしめた。
しかし、「河辺メモ」に記された荒唐無稽の理由を挙げて戒壇の大御本尊を疑難した者は、七百年来「外部」には一人もいなかった。
この矛盾に気づいた汝は翌十日、あわてて次の院達を出す。この院達には、河辺に書かせた「お詫びと証言」なる一文が載せられていた。河辺はこの中で
「宗内においても(中略)妄説が生じる可能性と、その場合の破折について話を伺ったものであります。但しこの話は強烈に意識に残りましたので、話の前後を抜いて記録してしまい、あたかも御法主上人猊下が御自らの意見として、本門戒壇の大御本尊を偽物と断じたかのごとき内容のメモとなってしまいましたことは、明らかに私の記録ミスであります。このような私の不注意による事実とは異なる不適切な内容のメモが外部に流出致し、本門戒壇の大御本尊の御威光を傷つけ奉り、更には御法主上人猊下の御宸襟を悩ませ……」等と述べている。
先の院達の「外部からの疑難」が、ここでは「宗内においても生じる可能性のある疑難」と言い変えられている。
しかし宗内においても、汝が挙げた荒唐無稽のヨタ話で戒壇の大御本尊を誹謗した者は一人もない。またその「可能性」すらないのである。
まさに知るべし。大御本尊を偽物呼ばわりしたのは、外部の者でもない、宗内の者でもない、またその可能性があったわけでもない。ただ一人、汝こそが、この大それた悪言を吐いたのである。
宗門の教学部長がとんでもない事を言い出したから、河辺は飛び上がらんばかりに驚いたのだ。だから、書かされた「お詫びと証言」にも、明らかにその矛盾が表われている。すなわち
「この話は強烈に意識に残りましたので、話の前後を抜いて記録してしまい、あたかも御法主上人猊下が御自らの意見として、本門戒壇の大御本尊を偽物と断じたごとき内容となってしまいました」と。
「強烈に意識に残った」ことを記録するのに、たとえ話の前後を省略しようとも、「偽物と断じた」のは誰かという、重大な主語を間違えることがあり得ようか。だから
「あたかも御法主上人猊下が御自らの意見として、本門戒壇の大御本尊を偽物と断じたごとき内容となってしまいました」
とは、実は「記録ミス」ではなく、その通りだったのである。
まして「河辺メモ」には、「種々方法の筆跡鑑定の結果解った」とあるではないか。宗内で将来生ずるかも知れぬことを想定しての破折ならば、この一語は平仄が合わない。いったい誰が「鑑定」をしたのか。教学部長・阿部信雄以外にはないではないか。
またもしこれが「記録ミス」であったならば、事はあまりに重大。このような「お詫びと証言」などで済む問題ではない。擯斥処分があって然るべきである。しかるに河辺は処分どころか、このあと早早に、北海道・日正寺の住職から東京新宿の大寺院・大願寺の住職に「栄転」しているのである。何とも不可解な処置ではないか。
汝はすべてを知っているのだ。「河辺メモ」が極めて正確であることも、またこのメモを流出させたのが河辺自身であることも――。ゆえに汝は河辺の口を封ずるため、「大願寺栄転」で取引したのであろう。
だから取引が決着したのち、汝が宗内に送付した「御指南」(平成11・9・18)なる文書には、このメモ流出について、「本人の承諾なく、盗人の手によって」等と述べて、ことさら盗み出されたことを強調している。このことは、もし流出が河辺の意志で行われたとしたら、メモの内容を否定できなくなってしまうからである。
しかし盗まれたのなら、騒ぐのは被害者の河辺自身であるはずだ。ところが河辺は「お詫びと証言」においても「外部に流出し」というだけで、盗まれたとは一言もいってない。そのはずである。メモは盗まれたのではなく、河辺自身が流出させたのだ。

 第二弾の「河辺メモ」

その証拠が、第二弾の「河辺メモ」の流出である。
この第二弾メモは、「お詫びと証言」が載った宗務院通達が出た前日七月九日付の、河辺の直筆メモである。それには

メモの件
1、当局の云う通りやるか。
2、還俗を決意して思い通りでるか。
3、相談の結論とするか。
7/9
自坊TeL
宗務院より「河辺の感違い」とのFAX(宗内一般)

とある。この日の夜、河辺は藤本総監ら宗務役僧三人と面談するため、北九州のホテルに投宿している。そこで今後の自身の身の処し方をシミュレーションしたのが、このメモである。
そしてこのメモが、これみよがしに、なんと学会系僧侶が発行している情報紙「同盟通信」に掲載されていた。――ということは、河辺自身がこれを渡した以外にはないのである。
これを見れば、二月七日付の極秘メモも、河辺が流出させたことは一点の疑いもない。策士・河辺はこのメモで汝を脅し、自身の思惑を達せんとしたのであろう。いかにも卑しい。しかしいま問われているのは、河辺の人格ではない。このメモ流出によって、白日のもとに晒された汝の正体そのものなのである。

 対面の機会あらば…

ここで少しく二月七日付の「河辺メモ」に触れよう。この「メモ」によれば、汝は「日禅授与の本尊云々」「模写の形跡云々」等と述べている。
この大それたたばかりを見たとき、小生は、かの善無畏が「法華経と大日経とは、天竺にては一経」といって一行をたばかった故事が胸に浮んだ。汝は河辺の無智につけ込み、己が博識を自慢げに、「日禅授与の本尊」を引き合いに出して河辺をたばかったのであろう。
弘安三年五月九日の「比丘日禅」授与の御本尊については、小生は法道院において十余回にわたって眼のあたりに拝観している。そして当時の早瀬道応主管より、この御本尊が北山から流出した状況、同日付の御本尊が北山に現存する理由、また応師が明治四十一年にこれを買い取り法道会に奉蔵されたときの状況等、再三にわたり克明にこれを聞いている。
これを以て判ずるに、汝の「模写の形跡云々」の思わせぶりのたばかりなど、裏の裏まで見透せる。
但し、ここにはこれ以上は言わぬ。もし対面の機会あらば、必ずや一刀両断して、大御本尊の御宝前に五体投地の懺悔をさせること、小生の不変の決意である。

二、「Gは話にならない」

この「Gは話にならない」について、汝は返書において
 「日達上人に対する不遜の言も、間違いなく活動家僧侶(後の正信会)の発言である」
と見えすいた嘘をついているが、正信会僧侶が、どうしてこのような発言をする必要があるのか。当時の宗門と学会の関係、学会と阿部教学部長の関係、細井管長と活動家僧侶との関係等を知れば、この嘘は即座に崩れる――。

当時の宗門状況

少しくこれを説明しよう。
先にも述べたごとく、細井管長と池田大作の癒着に亀裂が入ったのは、顕正会の必死の諫暁による。正本堂落成の翌昭和四十八年十月十四日、池田は正本堂から退出する細井管長を待ち受け、大勢の学会員の前で同管長を面罵した上、学会に十億円の寄附をするよう要求した。
池田はこの面罵について、後日、側近の原島嵩にこう語っている。
「あのときなぜ怒ったかといえば、妙信講のとき、猊下はあっちについたり、こっちについたりしたからだ。覚えておけ!」(原島嵩「池田大作先生への手紙」)と。
これで、両者の亀裂は決定的となった。
細井管長も反撃した。翌四十九年七月二十七日の「宗門の現況と指導会」では
「おととしの秋ぐらいから、去年を通じ今年の春にかけて、学会の宗門に対する態度と申しますか、色々僧侶に対して批判的であり、また教義的にも逸脱していることが多々ある」
「また、会計を、大石寺の会計を調べるという。……その時に北条さんが云うには、もし調べさせなければ手をわかつ、おさらばする、とはっきり云ったのです。私はびっくりしました。こういう根性じゃ、これは駄目だと。会計を見せなければ、自分ら正宗から手を切ると云うのである」
さらに
「これはもう、このままじゃ話にもならない。もしどこまでも学会が来なければ――それは正本堂を造ってもらって有難いけれども、正本堂はその時の、日蓮正宗を少なくとも信心する人の集まりによって、その供養によって出来た建物であるから、もし学会が来なくて、こっちの生活が立たないというならば、御本尊は御宝蔵へおしまいして、特別な人が来たならば、御開帳願う人があったら、御開帳してよいという、覚悟を私は決めたわけです」
なんと醜い仲間割れか。「こっちの生活が立たない」とならば「御本尊は御宝蔵へおしまい」するという。訓諭の「後代の誠証」とは、この程度のものだったのである。
そして、いわゆる「五十二年路線」を迎える。昭和五十二年の元旦、池田は宗門を痛烈に批判した上で
「大聖人の御遺命の戒壇建立は創価学会がした。私がしたんです」「もはや御本尊は全部同じです。どの御本尊も同じです」
といって、暗に戒壇の大御本尊を否定蔑如するような発言をした。
池田は正本堂落成以前に、すでに「板曼荼羅に偏狭にこだわらない」とも放言している。池田べったりの汝が、この影響を受けないはずがない。河辺に洩らした大それた「謗言」も、あるいはこの延長線上にあったのかも知れない。
そして同年一月二十日には、学会批判の論文を書いた菅野憲道が学会本部に呼びつけられ、吊し上げられるという事件がおきる。同行した阿部教学部長は、ただ学会の側に立って菅野をたしなめるだけであったという。この菅野憲道への恫喝は、細井管長への威しでもあった。細井管長は憤激した。
さらに同年八月四日、学会は副会長会議を開いて宗門の動きに対する戦略を討議している。その記録によれば
「阿部教学部長が次(次期「法主」)を狙っているので、相対して(連携して)やっていく」「作戦は密を要す」(副会長会議記録)
等と語られている。学会は汝の野心を知り、それを利用して宗門対策を進めようとしていたのである。
この一ヶ月後の九月二日、宗務役僧と学会首脳が学寮で会談しているが、席上、汝は池田大作に対し
「創価学会は末法にあって、今後も出ない団体だと思います」(学寮記録文書)
と諂った上で、僧侶の練成についての伺いを立てている。このとき池田が自身の教学について
「阿部教学部長はどう思われますか。間違っていますか」
と質した。これに対し汝は
「社会に開いた先生の教学はよくわかります。完璧であると思います
と答えている。細井管長が「学会は教義的に逸脱している」(前掲)と言っているのに、汝は「完璧である」と追従していたのである。次期を狙っての野心がここにも見える。
同年十一月十四日、学会は「僧俗一致の原則(五ヶ条)」「僧俗一致のために(七ヶ条)」「反学会僧侶十一名の処分要求書」を宗務院に提出してきた。これらの案文は学会に都合のいいように作られていた。これを見た細井管長は憤り、同二十八日に活動家僧侶有志を集めてこう述べた。
「(五ヶ条は)粉砕じゃない。これはもう(学会と)手を切んなきゃだめだと思う」「若い者が結束して、わしを突き上げてくれ。とにかく若い者は結束しなきゃだめだ。バラバラじゃだめなんだ」
ここに細井管長は、学会と手を切ることを決意し、それを明言したのである。
明けて昭和五十三年一月十九日、活動家僧侶一四七名が本山に結集した。そのときの質疑において細井管長は
「(学会を)堂々と大いに破折せよ。……必ずしっぺ返しが来る。より以上のケンカ、その時こそ腹を決めなけりゃいかんと、私は考えている。だから諸君もそのつもりで、いざ今度何かあれば、手を切らなきゃならん頭でいてもらいたい。檀徒名簿も作っておきなさい」と述べている。
翌二月五日、池田は「宗学友人会」で次のように語っている。この宗学友人会というのは、学会べったりの僧侶が宗門情報を池田の耳に入れる秘密機関である。その記録には池田の発言を
「人が変わればまた変わると思う。新しい人が台頭していただいて、先は明かるいと思う。一番心配しているのは、阿部さんではないか」としている。
池田は細井管長の退座と阿部教学部長への期待をにじませている。しかし当時の阿部教学部長の立場は、学会への内通が細井管長の不興を買って閉塞状態にあり、次期法主の芽は消えていた。
このような状況下で、細井管長は、学会と手を切るかどうかの討議を反学会活動家僧侶にさせるべく、「時事懇談会」を二月九日と決定したのである。
汝が帝国ホテルで河辺と密談をしたのは、実にこの時事懇談会の二日前であった。かくて汝は
「Gは話にならない。人材登用、秩序回復等、全て今後の宗門の事ではGでは不可能だ。Gは学会と手を切っても、又二・三年したら元に戻るだらうと云う安易な考へを持っている」
と細井管長への憤懣を河辺にぶちまけたのである。
しかも汝は、この時事懇談会の翌日、学会本部近くの料亭「光亭」で池田と会い、細井管長と活動家僧侶の動向を報告しているではないか。(山崎裁判における池田大作証言、昭和58・10・31)

  「メモ」により正体露見

このような当時の状況を見れば、「Gは話にならない」が汝の発言であることは一点の疑いもない。しかるに「間違いなく活動家僧侶(後の正信会)の発言である」などと見えすいた嘘をつくのは、汝にとってもう一つの重大問題を隠すためである。
それは――「相承疑惑」である。
細井管長は昭和五十四年七月二十二日、貫首の最大の責務たる御相承をすることも叶わず、急死した。この現証こそ御遺命に違背した罰であるが、このとき汝は通夜の席において
「昨年四月十五日、総本山大奥において、猊下と自分と二人きりの場において、すでに内々に相承を受けていた」(取意)
と自己申告して、猊座に登った。
ところが、この「昨年四月十五日」とは、「Gは話にならない」発言の、わずか二ヶ月後のことである。このような相互不信の関係において、御相承のあり得るはずがない。だから、もし「Gは……」が汝の発言となれば、「四月十五日相承」の欺瞞が発覚してしまう。これが「活動家僧侶の発言」とせざるを得ない最大の理由である。

しかしながら、嘘はどうしても露見する。――相承があったという「四月十五日」の二ヶ月後の六月二十九日に、総本山大講堂で全国教師指導会が開かれた。席上、細井管長は活動家僧侶に対し、学会員を折伏して末寺の檀徒とする、いわゆる「檀徒運動」を公然と支持し激励した。
ところが、この集会終了後、汝は直ちにこれを学会に通報した。これを知った細井管長は憤り、内事部において大勢の活動家僧侶を前にして
「こちらから通報するなんて、阿部はとんでもない。学会べったりでどうしようもない奴だ。向こうが聞いてくるまで、放っておけばいいんだ」(時事懇談会記録)
と声を荒げたという。もし二ヶ月前に御相承が済んでいたら、汝が学会に通報することもあり得ないし、また細井管長が次期法主に対し「どうしようもない奴だ」などというはずもない。

ここに「河辺メモ」は、汝が戒壇の大御本尊を「偽物」と断じたことと、詐称法主であることを、克明に立証したのである。
仏法の眼を以てこれを見れば、この一枚のメモ流出こそ、まさしく諸天が河辺にこれをなさしめ、尊げなる姿を装った「阿部日顕」の醜悪なる正体を、白日の下に晒したものである。