日蓮大聖人の御遺命とは(4)

御遺命破壊の大悪起こる

しかるに、この大事な御遺命がまさに破壊されんとする大悪が、正系門家に起きたのである。あろうことか、宗門の公式決定として「国立戒壇」が否定され、俄に建てられた正本堂が「御遺命の戒壇」と決定されたのであった。

広布前夜の魔障

これこそ広布前夜の正系門家を襲った魔障といえよう。宇宙法界には、仏法を守護する諸天が存在すると同時に、仏法を破壊せんとする魔の働きもある。この魔の生命活動の中心的存在を「第六天の魔王」という。この第六天の魔王が仏法を破壊せんとする時は、まず智者・指導者の身に入って仏法を内から壊乱する。

大聖人は最蓮房御返事に
第六天の魔王、智者の身に入りて正師を邪師となし、善師を悪師となす。経に『悪鬼其の身に入る』とは是れなり。日蓮智者に非ずと雖も、第六天の魔王我が身に入らんとするに、兼ねての用心深ければ身によせつけず」と。

智者といわれた真言の弘法・念仏の法然等が法華経を敵視したのも、叡山の第三・第四の座主たる慈覚・智証が本師・伝教大師に背いて法華経を捨てたのも、みなこの第六天の魔王がその身に入ったからに他ならない。

それだけではない。第六天の魔王は御本仏の御身まで狙う。だが大聖人は「兼ねての用心深ければ身によせつけず」で入ることができない。このような時には、魔は国主等の身に入って、御本仏を迫害せしむる。

この第六天の魔王が、広宣流布前夜に、どうして拱手傍観していようか。必ず正系門家の指導的地位にある者の身に入って、これを誑すのである。

当時、宗門を左右し得る実力者は、創価学会第三代会長・池田大作であった。彼は強大な組織力と金力を背景に日蓮正宗を圧伏していた。「時の貫首」をはじめ全僧侶は、ただ彼の威を恐れ阿諛追従するのみであった。

ここに池田は慢心し大野心を懐くに至る。それは、政権を奪取して日本国の最高権力者たらんとする野望だった。昭和四十年当時、彼はその夢を、居並ぶ大幹部ならびに同席させていた御用評論家に語っている。

「私は、日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想・文化・一切の指導者、最高権力者である」(「人間革命をめざす池田大作その思想と生き方」高瀬広居)と。

このとてつもない大慢心は、あたかも時の天子をも凌駕せんとしたかの蘇我入鹿を彷彿させる。第六天の魔王はこの信心薄き大慢心の男の身に入り、正系門家の内部から「国立戒壇」を消滅させんとしたのである。

「国立戒壇」否定の動機

池田大作は学会員を選挙に駆り立てる口実に、前々からしきりに「国立戒壇」を利用していた。

「大聖人様の至上命令である国立戒壇建立のためには、関所ともいうべき、どうしても通らなければならないのが、創価学会の選挙なのでございます」(大白蓮華34年6月号)

この言葉を信じて、学会員は寝食を忘れて選挙に戦った。そして昭和三十九年、池田は公明党を結成し、衆院進出を宣言する。いよいよ政権獲得に乗り出したのだ。

これを見て、共産党をはじめマスコミ・評論家等は一斉に、池田がそれまで政界進出の口実にしていた「国立戒壇」を取りあげ、「国立戒壇は政教分離を定めた憲法に違反する」と批判を始めた。

池田はこの批判を強く恐れたのである。

だが、実はこの批判は当らない。なぜなら、国立戒壇の建立は広宣流布の暁に実現されるゆえである。その時には当然国民の総意により、仏法に基づく憲法改正が行われる。その上で建立される戒壇であれば、「憲法違反」などの非難は当らない。また国立戒壇建立は御本仏の一期の大願であれば、たとえ三類の怨敵が競い起こるとも仏弟子ならば恐れない。

だが、池田はこれを恐れた。ということは、彼が叫んでいた「国立戒壇」は学会員を選挙に駆り立てるための口実に過ぎなかったのだ。彼には、国立戒壇が仏国実現の唯一の秘術であることも、御本仏一期の御遺命の重さも、全くわかっていなかったのだ。

だから国立戒壇への批判が選挙に不利をもたらすと見るや、この御遺命が邪魔になった。そして恐るべき思いが彼の胸中に湧いた──。それが国立戒壇の放棄・否定であった。

しかし口だけで「国立戒壇」を否定しても、世間は信じてくれない。そこで国立戒壇に替わる偽戒壇を建てることにした。すなわち大石寺の境内に巨大な偽戒壇「正本堂」を建て、これを「日蓮大聖人の御遺命の戒壇」と偽れば、国立戒壇は完全に否定されるのである。

「法主」を籠絡

この大それたたばかりは、池田ひとりではなし得ない。どうしても時の「法主」(貫首)の権威が必要であった。

時の「法主」は第六十六世・細井日達管長であった。前述のごとくこの管長も登座直後には
「富士山に国立戒壇を建設せんとするのが、日蓮正宗の使命である」(大白蓮華三十五年一月号)

「事の戒壇とは、富士山に、戒壇の本尊を安置する本門寺の戒壇を建立することでございます。勿論この戒壇は、広宣流布の時の国立の戒壇であります」(大日蓮三十六年五月号)等と正義を述べていた。

だが、池田の要請を受けるや、たちまちに「国立戒壇」の御遺命を抛ち、正本堂を御遺命の戒壇とする悪義を承認してしまった。

日興上人は遺誡置文に
衆義たりと雖も、仏法に相違有らば、貫首之を摧くべき事」と。――たとえ多数を頼んでの意見であっても、それが大聖人の御意に違っていたら、貫首は断固としてこれを打ち摧かなければならない――とのお誡めである。

しかるに細井管長は、冨士大石寺の貫首として命を賭しても守らねばならぬ大事の御遺命を、なんと池田大作に売り渡したのである。池田の”威圧”に屈し、莫大の”供養金”に心を蕩されたのであった。

「法主」の承認を得た池田は、鬼の首でも取ったごとく、「法主」の”権威”をふりかざし「正本堂が御遺命の戒壇に当る」旨を学会の集会で声高に叫んだ。

「いまの評論家どもは『創価学会は国立戒壇を目標にしているからけしからん』といいますが、私はなにをいうかといいたい。そんなことは御書にはありません。彼らはなにもその本義を知らないのです。猊下(法主)が、正本堂が本門戒壇の戒壇堂であると断定されたのであります。ですから、皆さん方は『創価学会は国立戒壇建立が目標である』といわれたら、いいきっていきなさい。とんでもない、こんどの私どもの真心で御供養した浄財によって、正本堂が建立する。それが本門の戒壇堂である。これでもう決定されているのですと」(聖教新聞40年9月22日)

なんと恥しらずか──。「国立戒壇の建立こそ、創価学会の唯一の大目的」と叫んでいたのは池田自身ではなかったのか。それを「評論家ども」のせいにしている。しかしながらこの池田発言には、国立戒壇の放棄が「評論家ども」の批判を恐れてのゆえであったこと、また正本堂のたばかりに「法主」を利用したことが、はしなくも表れている。

さらにこの年(昭和四十年)の九月、池田は細井管長に正本堂募財の訓諭を発布させる。その訓諭には「蔵の宝に執着することなく……」とあった。

学会員は正本堂を御遺命の戒壇と信じたゆえに、血のにじむ供養をした。当時、全国の質屋の前には家財道具を持って並ぶ学会員の列ができ、生命保険も一斉に解約され、世間の話題になった。

この痛ましき、欺き集めた供養の総額は三百数十億円にも達した。そしてその全額が供養奉呈式において、「法主」から池田に戻された。始めから仕組まれていたのである。

誑惑の大合唱

正本堂のたばかりが成功すると見た池田大作の言動は、時間とともに露骨さを増すようになった。

昭和四十一年の「立正安国論講義」では
「本門戒壇を建立せよとの御遺命も、目前にひかえた正本堂の建立によって事実上達成される段階となった。七百年来の宿願であり、久遠元初以来の壮挙であることを確信してやまない」

四十二年の学会本部総会では
「三大秘法抄にいわく『三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して蹋み給うべき戒壇なり』と。(中略)この戒壇建立を日蓮大聖人は『時を待つ可きのみ』とおおせられて滅後に託されたのであります。以来、七百年、この時機到来のきざしはなく、日蓮大聖人のご遺命はいたずらに虚妄となるところでありました。だが『仏語は虚しからず』のご予言どおり、(中略)七百年来の宿願である正本堂建立のはこびとなったのであります。(中略)世界平和の新しい根本道場である正本堂は、時とともに輝きを増し、末法万年尽未来際まで、不滅の大殿堂となることは、絶対に間違いない。(中略)なお、正本堂完成により、三大秘法が、ここにいちおう成就したといえるのであり、『立正安国』の『立正』の二字が完ぺきとなったのであります」(大日蓮42年6月号)

さらに同年十月に行われた正本堂発願式では、誇らしげに宣言する。

「夫れ正本堂は末法事の戒壇にして、宗門究竟の誓願之に過ぐるはなく、将又仏教三千余年、史上空前の偉業なり」(発誓願文)と。

天魔の入った池田大作は、もう御本仏の御眼を恐れることなく、この大欺瞞をかえって「仏教三千余年、史上空前の偉業」と讃え、これを成し遂げた自身の功績を誇ったのである。

これを承けて、学会の主要書籍にも誑惑の文字が躍った。

「戒壇とは、広宣流布の暁に本門戒壇の大御本尊を正式に御安置申し上げる本門の戒壇、これを事の戒壇という。それまでは大御本尊の住するところが義の戒壇である。(中略)昭和四十七年には、事の戒壇たる正本堂が建立される」(折伏教典)さらに
「日蓮大聖人は本門の題目流布と、本門の本尊を建立され、本門事の戒壇の建立は日興上人をはじめ後世の弟子檀那にたくされた。(中略)時来って日蓮大聖人大御本尊建立以来六百九十三年目にして、宗門においては第六十六世日達上人、創価学会においては第三代池田大作会長の時代に、本門の戒壇建立が実現せんとしている」(仏教哲学大辞典)

「正本堂の建立により、日蓮大聖人が三大秘法抄に予言されたとおりの相貌を具えた戒壇が建てられる。これこそ化儀の広宣流布実現であり、世界にいまだ曽てない大殿堂である」(同前)と。

細井管長も、初めは御遺命に背く恐れからか曖昧な表現が多かったが、次第にその発言が大胆になる。

「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」(大白蓮華二〇一号)と。

ここにいう「王仏冥合」とは、池田を「王」とし細井管長を「仏」とする、まやかしの王仏冥合である。正本堂が偽戒壇であるから、「王仏冥合」も「広宣流布」もすべてがごまかしとなる。

まことに白を黒といい、東を西といい、天を地というほどの見えすいたたばかりである。だが、宗門の最高権威たる「法主」と、最高権力者の池田大作が心を合わせて断言するところであれば、無智の八百万信徒はこれを信じ、無道心の一千僧侶また先を争ってこの悪義になびいた。

報恩抄には
例せば国の長とある人、東を西といい、天を地といい出しぬれば、万民はかくのごとく心うべし。後にいやしき者出来して、汝等が西は東、汝等が天は地なりといわば、用うることなき上、我が長の心に叶わんがために今の人を罵り打ちなんどすべし」と。

当時の宗門の姿は、まさにこの御文を彷彿させるものであった。

昭和四十二年の正本堂発願式に参列した宗門高僧たちの諛言を並べてみよう。

阿部信雄・教学部長(第六七世・日顕管長)
「宗祖大聖人の御遺命である正法広布・事の戒壇建立は、御本懐成就より六百八十数年を経て、現御法主日達上人と仏法守護の頭領・総講頭池田先生により、始めてその実現の大光明を顕わさんとしている」

大村寿顕・宗会議員(教学部長)
「この大御本尊御安置の本門戒壇堂の建立をば『富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ』云々と、滅後の末弟に遺命せられたのであります。その御遺命通りに、末法の今、機熟して、『本門寺の戒壇』たる正本堂が、御法主上人猊下の大慈悲と、法華講総講頭・池田大作先生の世界平和実現への一念が、がっちりと組み合わさって、ここに新時代への力強い楔が打ち込まれたのであります」

佐藤慈英・宗会議長
「この正本堂建立こそは、三大秘法抄に示されたところの『事の戒法』の実現であり、百六箇抄に『日興嫡々相承の曼荼羅をもって本堂の正本尊となすべきなり』と御遺命遊ばされた大御本尊を御安置申し上げる最も重要な本門戒壇堂となるので御座居ます」

椎名法英・宗会議員
「『富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ』との宗祖日蓮大聖人の御遺命が、いま正に実現されるのである。何たる歓喜、何たる法悦であろうか」

菅野慈雲・宗会議員
「正本堂建立は即ち事の戒壇であり、広宣流布を意味するものであります。この偉業こそ、宗門有史以来の念願であり、大聖人の御遺命であり、日興上人より代々の御法主上人の御祈念せられて来た重大なる念願であります」と。

どうしたら、このような諂い、見えすいた嘘、大聖人に背き奉る誑言が吐けるのか。

所詮、これら僧侶たちには信心がないのだ。池田にへつらって我が身を長養することしか考えてないのだ。まさしく「法師の皮を著たる畜生」「法師と云う名字をぬすめる盗人」(松野抄)とのお叱りが、そのまま当る禿人どもである。

かくて正系門家から「国立戒壇」の御遺命は消滅し「正本堂」を讃える悪声のみがこだました。第六天の魔王はものの見事に、正系門家から御本仏の御遺命・七百年来の宿願を奪い去ったのである。