「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」(6)

「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か」について

本門戒壇建立の場所は、日本国の中には富士山、富士山の中には南麓の勝地・天生原と、日興上人以来歴代上人は伝承されている。

しかし大石寺の境内に建てた正本堂を御遺命の戒壇と偽るためには、どうしても「天生原」を否定しなければならない。そこで阿部教学部長は云う。

「現在、本門戒壇の大御本尊まします大石寺こそ、本門戒壇建立の地であることは明らかである。凡そ戒壇建立地の大前提たる富士山は、大聖人の定め給うところながら、その山麓の何処であるかは、唯授一人の血脈を詔継され、時に当って仏法上の決裁を示し給う現法主日達上人の御指南を基本とすべきである。戒壇建立の地は、正本堂の意義に徴するも大石寺であることを拝信すべきである」(悪書Ⅰ)

さらに云く

「天母山の問題がありますけれども、かえって天母山でなく、この大石寺でいいんだと、大石寺においてこそ、ここに戒壇を建立すべきであると、いう事が現在、御法主上人猊下の御指南であったわけでございます」(大日蓮49年8月号)と。

すべてを「法主」の権威でねじ曲げようとしている。

では細井管長はどのように「天生原」(この中心地が「天母山」)を否定したかといえば、詳細は顕正新聞(平成元年一月二五日号)に挙げて破折してあるのでここには省略するが、その要旨は、日興上人の文証たる「大坊棟札」を〝後世の偽作〟といい、また「天生原」説は〝要山の日辰が云い出したことで本宗の教義ではない〟等といっている。しかし日寛上人の

「事の戒壇とは即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり」(報恩抄文段)

を始めとして、歴代法主上人の御文はあまりにも赫々明々で否定しきれない。そこで細井管長は最後の一手として「天生原とは大石寺のある大石ヶ原のことである」とこじつけた。

すなわち天・生・原の一々の字義を諸橋大漢和辞典によって、「天」とは至高、「生」とは蘇生、「原」とは源、等と解釈したうえで「天生原は無限の生命の源を表わしている。よって天生原とは最高独一の妙法の原、即ち本門戒壇の御本尊であります。……天生原こそここにありと信じてこそ、真実の我々の心である」(大日蓮45年9月号)と支離滅裂なこじつけをしている。

だいたい「天生原」がどこにあるかを説明するのに、どうして諸橋大漢和辞典が出てこなければならぬのか。古来より大石寺の周辺一帯は「大石ヶ原」と呼ばれてきた。この地名に因って「大石寺」と名づけられたのである。そしてこの大石寺より東方四キロの小高い岡が「天母山」であり、その麓に広がる曠々たる勝地が「天生原」と呼ばれてきた。このように「大石原」と「天生原」は場所が異るから、地名も異ったのである。

そして日興上人以来歴代御法主上人は、大石寺の御宝蔵に戒壇の大御本尊を秘蔵厳護し給い、広布の暁、天生原に国立戒壇が建立されることを熱願されてきたのである。ゆえに四十八世日量上人は

「『本門寺に掛け奉るべし』とは、事の広布の時、天母原に掛け奉るべし、……夫れまでは、富士山大石寺即ち本門戒壇の根源なり」(本因妙得意抄)

と仰せられる。このように「天生原」は明らかに大石寺とは異る場所にある。それを大漢和辞典の字義の解釈によって同一地にするとは、見えすいたたばかりである。

明治四十五年に刊行された御宝蔵説法本には次のごとく示されている。

「此の大石寺より東の方、富士山の麓に天母原と申して曠々たる勝地あり、茲に本門戒壇御建立ありて」と。

この文、「大石原」と「天生原」を同一地という誑惑を、まさに一言にして破る明文ではないか。

それにしても、阿部教学部長自身の自語相違はどうする。昭和四十五年六月、顕正会の諫暁書に触発された八木直道・要行寺住職が、「正本堂を御遺命の戒壇といいながら、最勝の地ではない大石寺の境内に建てるのはおかしい」として「御伺書」を提出した時、阿部教学部長は同年六月九日付の文書を以て次のごとく回答している。

「正本堂が三大秘法抄に示したもう最極の戒壇でない以上、奉安殿に引続いてより大なる『戒壇御本尊』格護の殿堂として建設する場合、大石寺境内またはそれに隣接する地所を撰ぶことが諸般の実状と便宜上当然のことである」と。

この意をわかり易くいえば〝正本堂は御遺命の戒壇ではないから、天生原ではなく大石寺境内に建てるのが当然である〟ということである。どうしてこのような正論が云えたのかといえば、この時は、顕正会の第一回諫暁によりしばし宗門に正義が蘇っていた時だったからである。時の状勢によってくるくると教義を改変するこの無道心、恥ずかしいとは思わぬか。

「時を待つべきのみ」について

この御文は、時至らざる以前に戒壇を立てることを堅く禁じ給うた制誡である。一期弘法付嘱書と三大秘法抄に、同文を以て重ねて訓誡あそばされていることに、この御制誡の重大性を拝さなくてはならない。

では、その「時」とは何時を指すのか。一期弘法付嘱書には総括的に〝国主此の法を立てらるる時〟と定められ、三大秘法抄には具さに〝王仏冥合・王臣受持・勅宣御教書の申し下される時〟と定められている。御本仏の定め給うたこの重大な「時」を無視する者は、まさに仏勅に背く逆賊といわねばならぬ。

阿部教学部長が、この「時」をどのようにごまかしているかを見る。

「『時を待つべきのみ』の『時』をどのように考えたらよいのか。仏法の『時』というのは、本質的には、随自意で判断すべきものである。日蓮大聖人が今こそ三大秘法の大白法流布の時と判断されたのは、究極するところ、大聖人の御内証からの叫びであった」(悪書Ⅰ)と。

反詰して云く、しからば大聖人は正像二千年に出現されて〝今こそ三大秘法流布の時〟と随自意に判断されたのか。「時鳥は春ををくり、鶏鳥は暁をまつ、畜生すらなおかくのごとし」(撰時抄)と仰せられる大聖人が、どうして正像末の三時・五箇の五百歳等の客観的「時」を無視されようか。ゆえに観心本尊抄には地涌出現の時節を明かされて云く

「地涌千界正像に出でざることは、正法一千年の間は小乗・権大乗なり……今末法の初め小を以て大を打ち、権を以て実を破し、東西共に之を失し天地瞋倒せり、迹化の四依は隠れて現前せず、諸天其の国を棄て之を守護せず、此の時、地涌の菩薩始めて世に出現し、但だ妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ」

また云く

「是くの如き高貴の大菩薩、三仏に約束して之を受持す、末法の初めに出で給わざる可きか」

また云く

「此の菩薩、仏勅を蒙りて近く大地の下に在り、正像に未だ出現せず、末法にも又出で来り給わずば大妄語の大士なり」と。

これらの御文を拝すれば、大聖人が「後五百歳」「末法の初め」という、経文に定められた「時」を待って出現し給うたこと、明々白々ではないか。御本仏にしてなおこのように「時」を待ち給う。いわんや末流の門下が、御本仏の定め給うた戒壇建立の「時」を無視し、「随自意」などと称して、勝手に「時」を判断する己義が、どうして許されようか。

阿部教学部長はさらに云う

「『時を待つ』といっても、それは、時をつくりつつ待つのであって、ただ手を拱いて待つのではない」(悪書Ⅰ)と。

当然ではないか。だからこそ日興上人は「未だ広宣流布せざる間は、身命を捨て随力弘通を致すべきこと」(遺誡置文)と仰せられたのである。日興上人・日目上人の死身弘法こそ紅涙を以て拝すべし。阿部教学部長は本行寺・平安寺の住職時代、学会にへつらうことと遊興ほか、どれほどの死身弘法をしたか。さらに念のため云っておく、「時をつくりつつ待つ」とは、世間を欺く正本堂などを建てることでは断じてない。

さらに教学部長はいう

「仏法の『時』は、決して固定化した一時点を指すのではなく、もっとダイナミックで、かつ大きいものである。したがって大聖人が『時を待つべきのみ』と仰せられたのも、一つには末法万年尽未来際の広宣流布を望んで壮大なビジョンの上から仰せられたものと拝する」(悪書Ⅰ)と。

これは池田大作の「広宣流布は終着点のない流れ自体」という欺瞞を扶ける妄語にすぎない。

心を沈めて御聖文を拝せよ。王仏冥合・王臣受持の状況を背景に、「勅宣・御教書」が発せられるその「時」は、まさしく年・月・日・時刻までも記録されるべき「一時点」ではないか。

また云く

「大聖人が『時を待つ可きのみ』と仰せられた御聖意を拝するに、予め社会次元での形式を論ずることは、かえって一定の制約をつくることになり、むしろ、時代に応じて、最も適切な方法をとるべきであるとの余地を残されてこのように仰せられたとも考えられる。大聖人が、他の御書においても、一切戒壇の内容についてふれられていないのも、こうしたご配慮があったればこそではなかろうか」(悪書Ⅰ)と。

大聖人が他の御書において本門戒壇の内容を一切説明されてないことについて、阿部教学部長は昭和三十七年ごろには、次のような正論を述べていたものである。

「この理由は、まず第一に、戒壇建立は国家の宗教的大革命であるから、国主帰依の後においても非常な大難があるべきこと、まして謗徒国中に充満の時、これが顕説は、慎重に慎重を加えられたものと思われます」(大白蓮華37年6月号)と。

この自語相違、どのように会通するのか。

さらに教学部長の誑惑は続く

「現在は仏法上いかなる時であるかを決し、宗門緇素にこれを指南し給う方は、現法主上人にあらせられる」として四十七年四月二十八日の訓諭を引き、その意を自ら釈して云く

「正本堂は現在直ちに一期弘法抄、三大秘法抄に仰せの戒壇ではないが、将来その条件が整ったとき、本門寺の戒壇となる建物で、それを今建てるのであると、日達上人が明鑑あそばされ、示されたのが此の度の訓諭であろう」(悪書Ⅰ)と。

いよいよ本音が出てきた。正本堂は、一期弘法抄・三大秘法抄に定められた条件が未だ整わないうちに建ててしまったものと、自ら結論づけているではないか。

しかし顕正会の破折がよほど気になるのか、続けてかく云う

「もしいまだ建物建立の時も至らずと考え、三大秘法抄の前提条件も整わないとして、前もって戒壇を建てるのは『時を待つべきのみ』の御制誡に背くという意見があるとすれば、それは不毛の論に過ぎない」と。

御本仏が定め給うた条件の整わぬうちに建てることこそ重大なる仏勅違背、御遺命破壊ではないか。この違背を責める護法の正論が、どうして「不毛の論」なのか。

さて、大聖人はなにゆえ広宣流布以前の戒壇建立を厳禁し給うたのであろうか。

謹んで案ずるに、もし宗教の正邪未だ決せぬ時に建立するならば、一国において邪正肩を並べ、自ずと邪宗・謗法を容認することになり、仏国実現が不可能になるからである。

ゆえに立正安国論には立正の前提として破邪すなわち謗法禁断を国主に示され、また如説修行抄には「終に権教・権門の輩を一人もなくせめをとして法王の家人となし、天下万民・諸乗一仏乗と成って妙法独り繁昌せん時」と仰せられ、また治病抄には「結句は勝負を決せざらんの外は、此の災難止み難かるべし」と仰せられるのである。

また大聖人の御振舞いを拝するに、鎌倉幕府を三たび諫暁ののちは鎌倉を去って身延に入山あそばされ、それよりは一歩も山を下り給うことがなかった。これ、諫暁を止めたのちになお鎌倉にとどまることは、邪正肩を並べ謗法を容認するに当るゆえである。

この大精神に基き、日蓮正宗においては、一国において邪正が決せられぬ間は、大聖人の御当体たる戒壇の大御本尊は宝蔵にこれを秘し奉り、謗法と堅く境を隔てて厳護申し上げてきたのである。

しかるに御制誡に背いて広布以前に戒壇を建てるとすれば、必ず宗門に謗法与同の不純、謗法同座の腐敗がおこる。

見よ、昭和四十四年五月、大石寺より日興上人の御影像を持ち出し、身延等の邪宗日蓮宗と共に開いた「聖人展」を――。また同年八月、全日本の邪宗が集り開いた「世界連邦身延大会」に公明党が参加を申し入れ、あるいは学会が立正佼成会・PL教等と停戦協定・平和協定を結んだ等の謗法与同は、まさにこの証拠ではないか。さらに正本堂には、あろうことかローマ法王の特使をはじめ数名のキリスト教神父が招かれている。これこそなによりの謗法同座の現証ではないか。

池田大作は正本堂落成直後の本部総会で次のように述べている。

「機会があるならば恒久平和実現のために、現にこの地球上で行われている戦争の終えんのために、キリスト教や、イスラム教や、仏教など、世界の宗教界の人々と、心から話し合う用意があることを、この席で強く申し上げておきたい」(聖教47・11・3)と。

「破邪・立正・安国」の御聖意をふみにじる、なんたる腐敗、なんたる堕落であろうか。かかる僻人の建てた「世界平和の殿堂」なる建物が、この正本堂なのである。

まさに「時を待つべきのみ」の御制誡に背けばこそ、このような腐敗堕落が起こるのである。阿部教学部長、以ていかんとなす。

以上、阿部教学部長の凄じいまでの三大秘法抄の御金言破壊を具さに見て来た。いまこれを総括すれば

「王法」を「あらゆる社会生活の原理」と歪曲し

「王臣」を「民衆」と欺き

「有徳王」を「池田先生」と諂曲し

「勅宣・御教書」を「建築許可証」とたばかり

「霊山浄土に似たらん最勝の地」を「大石寺境内」と偽り

「時を待つべきのみ」を「前以て建ててよい」と欺誑し、以て国立戒壇を否定して正本堂の誑惑を正当化さんとしたものである。

大聖人滅後七百年、三大秘法抄の御聖意をここまでふみにじった曲会は、宗内外に未だ見ざるところである。「外道・悪人は如来の正法を破りがたし、仏弟子等必ず破るべし、師子身中の虫の師子を食む」(佐渡御書)の仰せが転た身にしみる。

正系門家の中に在って、御本仏の唯一の御遺命を破壊せんとした「師子身中の虫」とは、誰あろう宗務院教学部長・阿部信雄その人であった。