「最後に申すべき事」(2)

第一章 「法主絶対論」等の欺瞞を破す

返書において、汝は己れの三大謗法の疵を隠すため、初めに「法主絶対論」を振りかざして問答無用と威し、さらに小生の過去の発言を歪曲しては誣言を並べている。よってこのたばかりを、まず打ち砕いておかねばならない。

一、「法主は大御本尊と不二の尊体」の欺瞞

古来、偽者ほど己れを荘厳り箔づけするという。されば返書に云く
「御当代法主上人の御内証は、本門戒壇の大御本尊の御内証と而二不二にてまします」と。つまり〝阿部日顕は戒壇の大御本尊と不二の尊体〟というわけである。
だが、このたばかりを打ち摧くのに、難しい理屈はいらぬ。教行証御書に云く「一切は現証には如かず」と。汝の所行を見れば、たばかりは一目瞭然となる。
よいか――。
戒壇の大御本尊と「不二の尊体」ならば――どうして御本仏一期の御遺命を破壊せんとしようか。また戒壇の大御本尊を「偽物」呼ばわりしようか。身延の謗法僧を大石寺に招こうか。これらはまさしく魔の所行ではないか。
また「不二の尊体」が、どうして芸者あそびなどに現をぬかそうか。信徒の血のにじむ供養を三十億円も浪費して都内の一等地に超豪邸を二つも造ろうか。これらは「法師の皮を著たる畜生」の所行ではないか。
涅槃経には
「もし仏の所説に随順せざる者あらば、是れ魔の眷属なり」とある。御本仏の御遺命に随順しない者は、魔の眷属なのである。
また摩耶経には
「なお猟師の外に袈裟を披て、内に殺害を懐くが如く、魔も亦た是くの如し。外には聖の像を為し、内には邪謀を挟む」とある。魔は尊げなる姿で身をかざり、内心に仏法破壊をたくらむのである。
ゆえに大聖人は最蓮房御返事に
「第六天の魔王、智者の身に入りて正師を邪師となす」
と仰せあそばす。まさに知るべし。「戒壇の大御本尊と一体不二」と嘯く汝の正体こそ、第六天の魔王その身に入る醜体以外の何者でもない。

しかるに汝は、さらに己れの身をかざらんとして、御本尊七箇之相承の「代代の聖人云々」の御文、および百六箇抄末文の「日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり」の御文を引いて
「そこに本宗僧俗が御当代の御法主上人を合掌礼をもって拝し奉り、御指南に信伏随従し奉る所以がある」
などという。つまり「法主」は即大聖人であるから合掌礼をし、かつその御指南を絶対として信伏随従せよ――と言っているのだ。これでは「法主本仏論」ではないか。
御本尊書写に関わる「七箇之相承」の金文を歪曲悪用して、〝阿部日顕即大聖人〟などとたばかってはいけない。このたばかりを打ち摧くのに深秘の御法門を論ずる必要がないことは、前と同様である。
また百六箇抄の御文は「嫡々付法の上人」についての仰せであって、汝ごとき詐称「法主」はこれに当らない。
汝ごとき三大謗法を犯した詐称「法主」がこれらの金文を振りかざすは、あたかも弓削道鏡が三種の神器の貴重を論じ、万世一系の権威を誇るようなものである。

さらに返書に云く
「そもそも戒壇建立とは唯我与我の日興上人への御遺命である。そしてまた日目上人以来、代々の御法主上人に受け継がれている重大なる御使命なのである。すなわち広宣流布の進展の上に、その一切は御法主上人が御仏意を拝され、御決定遊ばされる専権事項であられる。貴殿ら謗法者が容喙できる事柄ではない」
前には「不二の尊体」「法主即大聖人」といい、ここには戒壇建立は「法主の専権事項」という。
恐るべきことは、このような法主絶対論を振りかざす者が、もし大聖人の御遺命に背いて己義を構えたら、そのとき仏法は破壊されてしまうのである。広布前夜には、魔の働きによりこのようなことも必ず起こる。

日興上人の御遺誡

ここに二祖・日興上人は
「時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構えば、之を用うべからざる事」
と厳重の御遺誡を遺し給うたのである。
しかし汝はこの誡文を前にしても、なお「法主が己義を構えることなどあり得ない」と強弁するであろう。
だが、もし起こり得ないことならば、二祖上人のこの一条は無用の贅言となるではないか。 これまた「現証には如かず」である。中古の精師の「随宜論」等はさて置く。六十六、七の二代にわたる物狂わしき誑惑こそ、まさしく広布前夜のそれに当るではないか。

細井日達管長の己義

まず六十六世・細井日達管長がいかに己義を構えたかを見てみよう。
それは、天を地というごとき自語相違を見れば明らかである。同管長は登座直後には、御遺命のままに正義を述べていたが、池田大作に諂うや忽ちに誑言を吐いている。
例せば「国立戒壇」においても
「富士山に国立戒壇を建設せんとするのが日蓮正宗の使命である」(大白蓮華 昭和35年1月号)
と正論を述べていたのが、忽ちに
「国立戒壇は本宗の教義ではない」(大日蓮 昭和50年9月号)となる。
また「事の戒壇」においても
「事の戒壇とは、富士山に戒壇の本尊を安置する本門寺の戒壇を建立することでございます。勿論この戒壇は、広宣流布の時の国立の戒壇であります」(大日蓮 昭和36年5月号)
と正論を述べていたのが、後には
「この(戒壇の)御本尊在すところは事の戒壇でございます。だからその御本尊が、たとえ御宝蔵にあっても、あるいは唯今奉安殿に安置し奉ってあっても、あるいは今正に出来んとする正本堂に安置し奉っても、その御本尊在すところは何処・何方でも、そのところは即ち事の戒壇であります」(昭和45・4・27・教師補任式)
と変わる。これでは、いったいどちらを信じたらいいのだ。このように、「法主」であっても魔が入れば仏法相違の己義を構えるのである。
よって、かかる非常事態においては、大聖人の御金言を本として仏法を守護しなければいけない。この誡めを日興上人は
「時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構えば、之を用うべからざる事」
とお示し下されたのである。
だが、己義を構える貫首にとっては、この一条ほど痛く邪魔なものはない。そこで細井管長は、この文意を改変して宗内に押しつけている。そのさまを見よ。登座直後の「遺誡置文」の講義録では、細井管長は次のごとく述べていた。
「後世の総本山の代表たる貫主であっても大聖人の仏法に違背して自分勝手な説を立てて固執するならば、その説は勿論、その貫主を用いてはならない。日興上人は大聖人の仏法を守るためには、かくの如く実に厳格であったのである」と。
ところが顕正会の諫暁によって自身の己義が露見するや、次のように文意を改変した。
「時の貫主とは、その宗の頭、即ち現在の管長であり法主である。管長であるから宗門を運営するに当って、誰を採用し、任用してもよいのであるが、大聖人の仏法に違背して自分勝手な説を立て、しかも注意されても改めない人を用いてはならない。つまり、時の貫主の権限を示されているのである」(同講義録 昭和47・7・20版)

何とも恥しらずな二枚舌ではないか。この姿こそ、「時の貫首」でも魔が入れば仏法相違の己義を構えるという一例である。だが細井管長の誑惑は粗雑であり、汝のたばかりは深く巧みである。よってその罪はより深いのである。

二、「顕正会も〝すでに広宣流布〟と言った」の嘘

汝は顕正会を貶めるため、血眼になって小生の過去の発言を調べたものと見える。そして昭和四十年当時の一文を切り文して、次のごとく文意を歪曲した。
返書に云く
「まずはじめに、貴殿が昭和四十年には、『すでに広宣流布の時はきております』(富士 昭和四〇年八月号)と、当時が、すでに広宣流布の時である、との認識を示していることを挙げておこう。貴殿は口癖のように日達上人・日顕上人に対し、『広宣流布以前に立てた正本堂を〝御遺命の戒壇〟というためには、広宣流布の定義を変えなくてはならぬ。そこでさまざまなたばかりが行われた』(正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む)等との邪難をするが、貴殿にこのような発言があることを、顕正会員は知らないに違いない」
さらに第二回の返書にも重ねて
「なぜなら貴殿も昭和四十年には、『すでに広宣流布の時はきております』(富士 昭和四〇年八月号)と、当時が、すでに広宣流布の時である、との認識を示していたからである。貴殿にこのような発言があることを知ったら顕正会員はさぞ驚くに違いない」と。
鬼の首でも取ったようなはしゃぎぶりである。よほど嬉しかったと見え、二度の返書に引用している。小生のこの発言が、池田大作や細井管長が正本堂を建てるに当って「すでに広宣流布は達成している」と誑惑したのと同じだと、嗤っているのである。

馬鹿も休み休みいうがよい――。
昭和四十年といえば、顕正会(当時 妙信講)にとっては「試練と忍従」の真っ只中であった。池田大作は手先の法華講連合会を使って、学会に諂わぬ顕正会を潰そうとしていたのだ。その暗闇のトンネルのような中での死身弘法が、昭和四十年にやっと四千に達した。そしてこれを機に、一万めざしての幹部大会を開いた時の小生の決意が、この
「すでに広宣流布の時は来ております」
の発言である。
この意は、当時、世の中は大不況の真っ只中で災害も続いていた。よって〝大衆は悩みの中に御本尊を待っている。すでに広宣流布すべき時は来ている。一万めざし死身弘法をしよう〟と、全幹部を励ましたものである。
前後の文を読めばこの意は了々ではないか。だいいち、風前の灯のような状況下での四千達成で、どうして「広布達成」などという理由があろうか。馬鹿もほどほどにせよと言いたい。

三、「顕正会も正本堂に賛同していた」の嘘

さらに返書は
「つぎに、貴殿が正本堂の意義に賛同し、正本堂御供養にも参加していたという証拠を示そう」
として、小生の昭和四十年五月二十五日の総幹部会における発言を引く。これもよほど嬉しかったと見え、二度も繰り返している。〝顕正会だって我々と同じだったのだ〟と貶めたいのであろう。

 「大御宝蔵」として供養

顕正会が正本堂の供養に参加したのは事実である。
だがそれは――正本堂を奉安殿の延長として、国立戒壇建立の日まで戒壇の大御本尊を秘蔵厳護し奉る堂宇、すなわち「大御宝蔵」「大奉安殿」として供養に参加したのである。
事実、正本堂の建立寄進を細井日達管長に申し出た池田大作も、最初は正本堂と、広布の暁に立てられるべき本門戒壇とを、明確に区別していた。彼が始めて正本堂建立寄進を発表したのは、昭和三十九年五月三日の学会総会においてであるが、このとき彼はこう述べている。
「総本山日達上人猊下に、正本堂を建立、ご寄進申し上げたい。(中略)正本堂の建立は、事実上、本山における広宣流布の体制としてはこれが最後なのであります。したがって、あとは本門戒壇堂の建立を待つばかりとなります」(聖教新聞 昭和39・5・3)と。
この時点では明らかに、正本堂は奉安殿の延長、すなわち「大奉安殿」の意が明瞭であった。
だが、これより九ヶ月後、池田はこの正本堂を「御遺命の戒壇」とすり替えるため、これを細井管長の口から言わせようとした。それが昭和四十年二月十六日の第一回正本堂建設委員会における細井管長の説法となる。
池田はこの説法を以て「正本堂建立は実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成である」と宣伝した。
しかしこの時の細井管長の説法は、趣旨きわめて曖昧にして玉虫色、与えて論ずれば正本堂を奉安殿の延長としているごとくであり、奪ってこれを論ずれば池田の誑惑に同ずるというものであった。
なぜこのような曖昧な説法になったのかといえば、一方に池田の要請があり、一方に御本仏の御遺命に背くことの恐ろしさを感じていたゆえと思われる。
そして細井管長はこの曖昧な説法以後も、池田の宣伝とは関わりなく、同年の学会総会では
「戒壇の大御本尊を安置し奉るところの正本堂」(昭和40・5・3 学会総会)
と述べ、また法華講集会においても
「大客殿の奥深く戒壇の大御本尊を安置し奉ることは、本宗の相伝であります」(昭和40・8 法華講連合会大会)
と述べている。この「大客殿の奥深く」とは、紛れもなく広布の暁を待つ御宝蔵の意なのである。
さらに、昭和四十年九月に発布された正本堂の供養勧募の「訓諭」においてさえ、正本堂を御遺命の戒壇とは一言もいわず、ただ
「日達、此の正本堂に本門戒壇の大本尊を安置して、末法一切衆生の帰命依止、即身成仏の根源となさんと欲するなり。宗内の僧俗は、一結して今生に再度となき此の大事業に随喜して自ら資力の限りを尽して供養し奉り、信心の一端を抽んでられんことを望む」
とだけ宣していたのである。
このように、正本堂が広宣流布のその日まで、国立戒壇建立のその日まで、戒壇の大御本尊を秘蔵厳護し奉る堂宇であれば、供養の赤誠を尽くすのは信徒として当然である。ゆえに顕正会はこの供養に参加したのである。

供養を突き返す

一方、学会においては前述のごとく、細井管長の最初の説法以来、正本堂を〝御遺命の戒壇〟と、しきりと宣伝した。
しかし小生は「然るべき時に、必ずや猊下がこの誑惑を打ち摧いて下さる」と期待していた。それは日興上人の御遺誡に
「衆議たりと雖も仏法に相違有らば、貫首之を摧くべき事」
とあるからである。ことは宗門の一大事たる戒壇建立に関わること、しかも細井管長の説法を根拠として池田の誑惑が進められているのであれば、この「仏法相違」を打ち摧くのは、貫首一人の責務であり権能でもあった。
だが細井管長は、その後もただ黙しているだけであった。
そして、顕正会のこの供養参加に対し、池田の傀儡となっていた法華講連合会が「妙信講にはさせない」と騒ぎ出し、ついに本山をも動かした。
かくて顕正会の赤誠の供養は、無残にも本山から突き返されたのである。この背後に池田の意志があったことはいうまでもない。彼の目には、全宗門僧俗が己れの威を恐れ随う中に、ひとり正本堂を事の戒壇といわぬ顕正会の存在が目障りに映ったに違いない。そこで「法主の意」として供養金を突き返し、その衝撃で顕正会を窒息死させようとしたのである。
時の総監・柿沼広澄が法華講連合会の平沢益吉委員長に「これで妙信講は空中分解する」と伝えたのも、この時であった。

誑惑の大合唱

一方、全僧侶の諂いに意を強くした池田大作は、誑惑の悪言をいよいよエスカレートさせた。
昭和四十二年五月の学会総会では、彼は三大秘法抄を引用した上で
「この戒壇建立を、日蓮大聖人は『時を待つ可きのみ』とおおせられて、滅後に託されたのであります。以来、七百年、この時機到来のきざしはなく、日蓮大聖人のご遺命は、いたずらに虚妄となるところでありました。だが『仏語は虚しからず』のご金言どおり、(中略)七百年来の宿願である正本堂建立のはこびとなったのであります」
さらに同年十月の正本堂発願式では
「夫れ正本堂は末法事の戒壇にして、宗門究竟の誓願之に過ぐるはなく、将又仏教三千余年 史上空前の偉業なり」
と発誓願文を読み上げた。
これを承けて学会発行の書籍も一斉に、正本堂を御遺命の戒壇と断定するようになった。折伏教典には
「戒壇とは、広宣流布の暁に本門戒壇の大御本尊を正式に御安置申し上げる本門の戒壇、これを事の戒壇という。それまでは大御本尊の住するところが義の戒壇である。(中略)昭和四十七年には、事の戒壇たる正本堂が建立される」
仏教哲学大辞典には
「日蓮大聖人は本門の題目流布と、本門の本尊を建立され、本門事の戒壇の建立は日興上人をはじめ後世の弟子檀那にたくされた。(中略)時来って、日蓮大聖人大御本尊建立以来六百九十三年目(昭和四十七年)にして、宗門においては第六十六世日達上人、創価学会においては第三代池田大作会長の時代に、本門の戒壇建立が実現せんとしている」
「正本堂建立により、日蓮大聖人が三大秘法抄に予言されたとおりの相貌を具えた戒壇が建てられる。これこそ化儀の広宣流布実現である」と。
まことに天を地といい、白を黒といいくるめるほどの欺瞞、誑惑、たばかりである。
だが、無道心の宗門高僧らは、先を争うようにこの大誑惑に双手を挙げて賛同した。彼らは、大聖人の御眼よりも池田大作に睨まれるのを恐れ、池田の寵を得て栄達することを願っていたのである。
その最右翼が、教学部長・阿部信雄であった。汝の正本堂発願式における諛言を引こう。
「宗祖大聖人の御遺命である正法広布・事の戒壇建立は、御本懐成就より六百八十数年を経て、現御法主日達上人と仏法守護の頭領・総講頭池田先生により、始めてその実現の大光明を顕わさんとしている」(大日蓮 昭和42年11月号)
御遺命の事の戒壇が昭和四十七年に実現する、と言い切っているではないか。宗門の教学部長の発言であれば重大である。
続いて高僧らの阿諛が続く。佐藤慈英宗会議長は
「この正本堂建立こそは、三大秘法抄に示されたところの『事の戒壇』の実現であり、百六箇抄に『日興嫡々相承の曼荼羅をもって本堂の正本尊となすべきなり』と御遺命遊ばされた大御本尊を御安置申し上げる最も重要な本門戒壇堂となるので御座居ます」(同前)
椎名法英宗会議員は
「『富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ』との宗祖日蓮大聖人の御遺命が、いま正に実現されるのである。何たる歓喜、何たる法悦であろうか」(同前)
菅野慈雲宗会議員は
「正本堂建立は即ち事の戒壇であり、広宣流布を意味するものであります。この偉業こそ、宗門有史以来の念願であり、大聖人の御遺命であり、日興上人より代々の御法主上人の御祈念せられて来た重大なる念願であります」(同前)と。
そして翌昭和四十三年一月には、それまで慎重な言い回しをしていた細井管長までもが、露わな誑言を述べるようになる。
「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」(大白蓮華 昭和43年1月号)と。
なんと昭和四十七年の正本堂完成時を以て、「御遺命は成就」「広布は達成」と言い放ったのである。

平沢委員長の詰問

そのような空気の中の昭和四十四年二月十一日、顕正会を嫉視する法華講連合会委員長・平沢益吉から四箇条の詰問状が、妙信講・指導教師の松本日仁住職を通して小生に突きつけられた。この詰問は、宗務院・連合会連絡会議の席に松本住職をわざわざ呼びつけてなされたもので、平沢の発言を、同席していた阿部教学部長が筆記して松本住職に手渡したものである。その教学部長直筆の詰問状は、いま小生の手許にある。
四ヶ条の詰問のうち三ヶ条は取るに足らぬ言いがかりであったが、一ヶ条は重大であった。それは、小生が正本堂を事の戒壇と認めぬことを詰り、返答を求めたものである。詰問状には
「今の正本堂は事の戒壇ではない。奉安殿が狭くなったので、広い処へ移すためだけのものである、と妙信講では指導している」
と記されており、回答を迫っている。このとき平沢は「許しがたい。返答の次第では池田大作総講頭に伝え、妙信講を取り潰して見せる」と凄んだという。
この平沢の詰問こそ、全宗門が御遺命に背く中、ひとり妙信講だけが「正本堂は事の戒壇にあらず」として、国立戒壇の御遺命を堅持していたことを立証している。この一事を見れば、「顕正会も正本堂の意義に賛同していた」などのたばかりは、消し飛ぶであろう。

厳たる御命令耳朶を打つ

そしてこのとき、私はこの「詰問」に、大聖人の厳たる御命令を感じた。
「法を壊る者を見て責めざる者は、仏法の中の怨なり」(滝泉寺申状)
「もし正法尽きんと欲すること有らん時、まさに是くの如く受持し擁護すべし」(立正安国論)
「むしろ身命を喪うとも教を匿さざれ」(撰時抄)
この御金言が耳朶を打った。もしこのまま放置すれば、昭和四十七年の正本堂落成の日に、御本仏の御遺命は完全に破壊されてしまうではないか。この重大事を見ながら知りながら、黙止すれば最大の不忠となる。――この思いが込み上げたとき、それまで心の片隅にあった「いつか猊下が誑惑を摧いてくれるであろう」の期待も、「本門戒壇という重大法義に一在家の口出しは恐れあり」との逡巡も、一時に霧消した。
「黙っていたら大聖人様に申しわけない。大聖人様のお叱りを受ける。たとえ一命に及ぶとも、妙信講が潰されようと、何の悔いがあろう」
ただこの一念で、昭和四十五年三月、「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」の一書を認め、細井管長および宗務役僧、さらに学会首脳にこれを送附したのである。その末文に云く
「ここに宗務御当局に糺します。御当局は果して正本堂を『事の戒壇』と承認しておられるのでしょうか。一宗の重大事であれば、言を左右にし顧みて他を云う曖昧は断じて許されません。
もし事壇なりとせば、確かなる文・義を示さるべきであります。
もし事壇ならずとせば、一身を捨てて法の為・国の為、この法義の歪曲を正すべきであります。すでに法主上人猊下の御本意は明らかです。さればその衝に在る宗務御当局こそ、一死以て猊座を守り奉るべきであります。たとえいかなる権力による、いかなる衆議たりと雖も、仏法相違の己義は断固としてこれを打ち摧き給うべきであります。ひいてはこれが数百万信徒にとっても、詐りの親み無き真の慈悲者たるかと存じ上げます。(中略)
もしこれをなおざりにせんか、宗門一同に法を惜まぬ無道心、遂には御本仏大聖人の御罰を蒙るは必定なりと、深く恐れ憂えるものであります。
よって此処に黙す能わず、賤身を顧みず、敢えてk語を構え微衷を訴えるものであります。ただ畏るは、宗門に幾多の大徳・賢哲あり、而も未だ言を為し給わぬに、在俗愚痴の小身を以て濫りに大事に言及し、そのうえ権威を侵し奉る。その僣越の甚しき、まさに万死に値するかとも思うものであります。されば今生為にいかなる苛戮を受けるとも、敢えて辞する所に非ず云々」と。

以来、連々の諫訴・呵責は今日まで三十五年。その間、宗門あげての悪口も、理不尽なる解散処分をも耐え忍んだ。これ偏えに、大聖人の御心に叶い奉らんの一念以外にはない。
かかる一筋の忠誠を貫く顕正会を、汝ごとき阿諛の売僧が仮初にも毀るは、まさに「糞犬が師子王をほへ、癡猿が帝釈を笑う」にも似ている。