「日相上人の聞書」の疑惑

「事の戒壇」の定義を変更した宗門のたばかりは、平成2年の諫暁書「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」にて浅井先生は完膚無きまでに破折されています。

こちらに転載させていただいています。(「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」4、「事の戒壇」の定義変更による誑惑)

胸がすく太刀さばきで、感動を抑えられません。

さて、ここまで浅井先生に一刀両断されているにもかかわらず、宗門の輩は「戒壇の大御本尊ましますところは、いつでもどこでも事の戒壇」とたばかり、「日相上人の聞書」なるものを恥ずかしげもなく示してきます。

今回は、この「日相上人の聞書」について思うところを書いてみます。

細井日達は、この「日相上人の聞書」と言われる古文書が昭和50年に突如出てきたことを述べています。

「私は戒壇の大御本尊安置の処が事の戒壇であると、以前から何回もいっております。これに関して日寛上人の御説法を日相上人が科段に分けて、わかりやすく書いたのが、(最近)出てきました。これは日相上人の直筆です。
大弐とは日寛上人のことです。日寛上人の御説法を日相上人がお書きになった。これは間違いないんです」(昭和50年7月16日 大白法)

阿部教学部長もこれを受けて、この古文書が日相上人が日寛上人の「密意」を伝えるものであるとして次のように記しました。

「日相上人の聞書、大弐阿闍梨(日寛上人大学頭時代の呼び名)講の三秘六秘中の戒壇の文にも書かれている」(本門事の戒壇の本義)

浅井先生は、このたばかりについて次のごとく破折されました。

「これではまるで、日相上人が日寛上人の御説法の場に在って書いたように取れるではないか。「聞書」とは聞きながら書く速記録である。日相上人は第四十三世の貫首にして、その御出家は日寛上人の滅後四十四年である。その日相上人が、どうして日寛上人の御説法を聴聞できよう。たばかりもいいかげんにせよ。

また阿部教学部長は、この文書が日寛上人の「密意」を伝えるごとくいうが、あの用意周到の日寛上人が、どうしてこのような形で大事の御法門を後世にお伝えになるであろうか。寛尊の精美を極めた大事の御法門は、六巻抄および重要御書の文段に尽き、それ以外には絶対にない。ことに畢生の大著といわれる六巻抄に至っては、御遷化の前年に再治を加えられ、その中で「敢えて未治の本を留むることなかれ」とまで念記されている。その上人が、このような頼りないメモでどうして大事の法義を密伝されようか。

またもしそれほど重大な文書なら、なぜ今まで誰もその存在を知らず、昭和五十年になって始めて発見されたのであろうか。

この文書がもし日相上人の直筆だとしても、恐らく日相上人が日寛上人の大学頭時代の御説法本を拝見し、その要旨をメモされたものに過ぎないであろう。「密意」などとたばかってはいけない。

さて、鬼の首でも取ったように披露した日相上人文書であるが、その内容を見れば

とあるだけである。この意は、日寛上人が諸々に示し給うた御意と何ら矛盾するものではない。すなわち嫡々書写の本尊安置の処を「理の戒壇」とし、広布の暁・富士山に建てられる戒壇の大御本尊御在所の戒壇を「事の戒壇」と示されただけのことである。

このように、嫡々書写の本尊の所住と国立戒壇とを直ちに相対して理と事に立て分ける捌きは、日寛上人の報恩抄文段にも見られる。すなわち

「本門の戒壇に事あり理あり。理は謂く道理なり、また義の戒壇と名づく。謂く、戒壇の本尊を書写してこれを掛け奉る処の山々・寺々・家々は皆これ道理の戒壇なり。次に事の戒壇とは、即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり」と。

日相上人の文意は、この報恩抄文段と同一轍である。故意に文意を歪曲されては日相上人こそ迷惑なさろう。

だいいち、このメモの初めにも「三大秘法とは開すれば六、合すれば三なり」とある。もし戒壇の御本尊の所住が広布以前にも事の戒壇であるとするならば、三大秘法抄・御付嘱状の御遺命は不要となり、日寛上人の御法門の枢要たる三秘六秘も成立しなくなるではないか。」

すなわち要点は次のとおりです。

・日寛上人の滅後44年に出家された日相上人が、日寛上人の御説法を聴聞できるわけがない。

・日寛上人畢生の大著たる六巻抄には「敢えて未治の本を留むることなかれ」とまで念記されており、頼りないメモで大事の法義を密伝されるはずがない。

・それほど重大な文書がなぜ昭和50年に突如発見されたのか。

・仮にこの文書が日相上人の直筆だとしても、日相上人が日寛上人の大学頭時代の御説法本を拝見し、その要旨をメモされたものであろう。

・この「日相上人の聞書」の意は日寛上人が示し給うた御意と矛盾しない。「嫡々書写の本尊の所住」と「国立戒壇」とを直ちに相対して「理」と「事」に立て分ける捌きは日寛上人の報恩抄文段にも見られる。

・もし戒壇の大御本尊の所住が広布以前にも事の戒壇であるとすれば、三大秘法抄・御付嘱状の御遺命は不要となり、日寛上人の御法門の枢要たる三秘六秘も成立しなくなる。

まさに完膚無きまでの痛烈な破折です。

 

さて、最後に個人的な見解を少しだけ記します。

そもそも宗門は「日相上人の聞書」の著者を歴代貫首の「日相上人」と決めつけていますが、これには重大な疑惑があるのです。

浅井先生が破折されている通り、そもそも日寛上人(しかも大学頭時代)の講義を同上人滅後44年に出家された日相上人が直接聞くことなど不可能です。

「聞書」とは「人から聞いて、その内容を書きとめること。また、そのようにして書いたもの」(デジタル大辞泉)を意味するもので、いわゆる聞いたままを速記したものです。

そういえば細井日達は、「日開上人」の御宝蔵説法本を「日応上人のもの」とたばかった前科がありました。

そうこう考えながら「富士宗学要集」を開いてみると、なんと日寛上人の時代に「日相」という学僧がいたことが分かりました。

「富士宗学要集(第十巻)」に、日寛上人の観心本尊抄の講義を聴聞し、それを「聞書」した筆記「観心本尊抄 首 日相聞書」が掲載されています。

宗門が声高に叫ぶ「日相上人の聞書」は、総本山第43世・日相上人の筆記ではない疑惑があるのです。

細井日達が、学僧「日相」の聞書を権威付けて悪用するために「第43世・日相上人の聞書」とたばかった可能性が極めて高いのです。

もし、宗門が「日相上人の聞書」とやらを同上人の「直筆」と言い張るのであれば、昭和50年に突如出てきたという「日相上人の聞書」の全文を写真で公開すべきです。

そして、「第43世・日相上人」と「学僧・日相」のそれぞれの筆跡を開示して、「日相上人の聞書」が真正であることを証明すべきです。

これができないのであれば、「日相上人の聞書」が「日相上人」の筆記である可能性は極めて低いといえます。