上野殿御返事(たばかりの恐ろしさ)

宗門の輩は、もっぱら巧妙な「たばかり」を用いて、顕正会、そして浅井先生への信を薄くさせてきます。

かつて先生は「たばかり」の恐ろしさについて「上野殿御返事」講義において指導くださいました。

この上野殿御返事は、大聖人御在世において、怨嫉者たちが富士地方の若きリーダーであった上野殿をたぶらかして大聖人の御門下の分裂を企てようとしたとき、大聖人様が「魔を魔と見破り一筋の信心を貫け」と大慈悲の教誡をくだされた御書です。

以下に講義の要旨を転記します。

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「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」(10)

「国立戒壇は田中智学が云い出した」

阿部教学部長はいう

「国立戒壇の名称とその思想が初めてあらわれたのは、まさにこの智学の式目の中においてである」(悪書Ⅰ)と。そして顕正会の国立戒壇論を「田中智学の思想の模倣である」(悪書Ⅱ)として、口を極めて悪罵する。

国立戒壇を否定するには、もうこの論法以外に逃げ道はないのであろう。曽て細井管長は、日寛上人の報恩抄文段における「天生原に戒壇堂を建立するなり」を否定するため、不相伝家・要法寺の日辰が大石寺の義を盗んで「天生山戒壇説」を唱えていたことを理由に、「日寛上人は日辰の影響を受けている」などと僻論を述べたが、阿部教学部長の論法もこれと全く同じ手口である。

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「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」(9)

「世界宗教だから国立戒壇はない」

阿部教学部長はいう

「大聖人の仏法は、一国に跼蹐するものでなく、広く世界民衆を救済する世界的宗教の最たるものである。この点から国立戒壇論の執見を教訓したい」(悪書Ⅰ)
「世界宗教としての大聖人の本質より見て、苟も狭い一国の枠における国家主義的な執見に囚われてはならない」(悪書Ⅱ)と。

これも逆さまの論理である。世界宗教だからこそ国立戒壇が必要なのである。

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「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」(8)

5、その他の国立戒壇否定の僻論

「御書には国立戒壇の語はない」

池田大作はいう

「戸田先生もわれわれも、いちじ『国立戒壇建立』といってきました。しかしどこを捜しても、御書には『国立戒壇建立』ということばはないのです。大聖人様はちゃんと未来を考えていらっしゃったのです」(聖教40・9・22)

「国立戒壇ということばは、大聖人の御書には一つもありません。あくまでも、民衆の力によって、できあがる本門戒壇の建立が、大聖人の御遺命であります」(大白蓮華41年7月号)と。

幼稚な論理である。「国立戒壇」の用語が御書にないというのなら、「民衆立」の語はあるのか。また法華経の肝心・法体は一念三千である。しかし「一念三千」の語は法華経のどこにもない。同じく「久遠実成」「二乗作仏」のことばも法華経にはない。これらの言葉は、ことごとく法華経の理に基いて後に付された名称である。

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